カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
ミュージカル「マリー・アントワネット」の凱旋公演に行ってきた。4月10日、夜の部。
昨年の11~12月に3回見たので、これが4回目。 「前回の公演にくらべて劇の解釈がすこし変わり演出が改良され、かつカリオストロ役の山口祐一郎さんの歌に追加の新しいナンバーが増えた」 と聞いていたので、どんなふうに進化したのか楽しみにしてきた。 またまた期待感がアブナいほど膨れあがった末の観劇でしたが、大満足で帝劇をあとにできた。 マリー・アントワネットを裁く裁判から、マリーの処刑、そしてそのあとの「自由」の合唱に至るところが、劇の解釈・演出がすっきりとして、 すなおな感動を余韻として残してくれる仕上がりに変わっていた。 「貧民→娼婦→マリー・アントワネットの小間使い」役のマルグリット・アルノー(昨夜は新妻聖子さん)は、 マリー・アントワネットを裁く裁判があまりの濡れ衣裁判であることに憤り、マリーへの同情と親愛が決定的なものになってゆくのだが、 前回の演出ではそのあとのマリーの処刑の場面でマルグリットに ≪誰がするの? 同情なんて 自業自得と人は言う せめてあたし 見届けたいのよ 王妃の処刑を≫ と歌わせる。 マリーを心底にくんだ、もとのマルグリットに戻ってしまっていて、あれ? と観る側を混乱させていた。 唱和し昇華したかに見えたマリーとマルグリットの関係が第2幕の前半のところまで戻ってしまい、感動を冷ましてしまう演出だった。 これが変わって、処刑台の前まで歩んで倒れてしまうマリーをマルグリットが介抱し2人が和解と親愛に包まれるという演出に変わっていた。 映画なら、この演出ではあまりに非現実的場面になってしまうので成立しないが、演劇だから成立しうる。 演劇の可能性の極限に挑戦していながら、その思い切りぶりをまったく感じさせず自然に観客を感動へと誘いこむ。さすがというしかない。 これで、笹本玲奈さんの演技がどう変わっているのか、ぜひ見てみたい。 前回のヴァージョンは、笹本玲奈さんが「マリーを憎むマルグリット」を結末までつよく押し出しすぎていたが、演出がかわって演技の納得性も高まるはずだ。 そのあとの「自由」の合唱も、以前のヴァージョンでは 群衆が ≪解放 幻想 血 愛 奇跡 決断 愛 自由≫ とバックコーラスするなか ボーマルシェ ≪逃げろ≫ オルレアン ≪自由とは≫ マルグリット ≪愛が生む≫ ボーマルシェ ≪逃げ切れ≫ オルレアン ≪ちから≫ 全員 ≪自由!≫ と、それぞれの役まわりが自分を歌って混沌をつくる、抽象画的結末で、 これがじつに分かりにくいと不評だったのだが (わたしは、これはこれで「革命の偽善」を藝術表現したものと評価していました)。 今回のヴァージョンでは、この場面もすっきりして、最後は全員が ≪愛こそ自由≫ と歌いあげて終わる。 そこで観るものは、この劇がさまざまな愛のかたちを見せてくれたことを走馬灯のように思い出し、感動を深めることができる。 慈愛、恋愛、自愛、親愛、敬愛……と、さまざまな愛のかたちがつまっているミュージカルとして、「愛こそ自由」の唱和ほどふさわしいものはない。 山口祐一郎さんの出番が少ないように感じられた前回と異なり、 今回はカリオストロの影の登場が前より増えている感じで、しかも第2幕後半に追加されたナンバーはほとんど山口さんのリサイタル的状態。 こちらのほうでも満足感をくださった。 4月の末に、今度は家族4人で観劇させていただく予定。 わたしにとっては5回目となる。3度目の笹本マルグリット。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Apr 11, 2007 08:33:42 AM
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