カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
ギリシア悲劇の換骨奪胎もの3部作の3つめ。
土居裕子・純名りさ のお二人の唄を楽しみに観にいった。 待ちに待った大団円の絶唱は流れ星のように美しく、あまりに短かった。 思いついたままの比喩を書かせてもらえば、気が高ぶりだしたところで早々と相手にいかれてしまった女の気分かな。いかせてほしかったなぁ。 (↓「異人の唄」サイト) http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000034.html 島 次郎さんの舞台美術がみごと。 ひたすら夜。ときに靄がかかる。舞台は起伏する砂でおおわれ、中央に窪み。その奥に高い木のやぐらが組まれ、天辺でときにかがり火が燃える。 北の漁村に落ち着いたかつての旅藝人一家はぎくしゃくしている。 車椅子に坐った盲目の老人(すま けい・演)は恍惚にいてなお片意地を張りつづけ、ふたりの姪っ子が村を離れることを許さない。母譲りの唄のちからを人前で披露することも許さない。 年上の淀江アン(土居裕子・演)は、流浪を受け入れてくれた村への感謝を語り、伯父を肯定するが、 年下の淀江メイ(純名りさ・演)は海の向こうへ行きたいと訴える。 恋をしたのだ。 そして恋の相手と自分が異母兄妹であることが知れたところから、地軸がぐらぐらとゆらぎはじめる。 やがて思いがけなく、近親がむつびあう業(ごう)が家族を支配してきたことが明らかになる。 不自然な人間存在が舞台をミステリーに変え、やがて「血」の秘密が明らかになりおののきを与える構図は、 ちょうど今週観たばかりのミュージカル「ウーマン・イン・ホワイト」(原作小説邦題『白衣(びゃくえ)の女』)にも共通する。 そういえばこの「異人の唄」にも「白い女」が出てくるのだ。 一言も言葉を発せず、砂浜をゆっくりと歩み、あるいは盲目の老人の車椅子を推す。 たぶん彼女は、業(ごう)がひとの姿で歩いていたのだ。 「異人の唄」では村人を8人の青年に演じさせている。 顔出しはしているのだが無名・無個性に、まるで仮面ライダーの戦闘員のようにふるまうことで、因習の奴隷としての「世間」を体現した。 そのアイデアは買うけれど、8名をハードロックにのせた実験舞踏はわたしの好みではなかった。 ヴェテランのすまけいさんが、渋い「とぼけ」で舞台に深みをくれたことで救われた。 大団円の土居裕子さんのアカペラは、突き抜ける美しさだった。 話劇の人としての土居裕子・純名りさのお二人ももちろんよかったのだけど、 せっかくこれだけの歌い手に恵まれる舞台なのであれば、それを十二分に生かす構成がありえたのではないか。 音楽は、同じ旋律を何度も聞くことで感応が高まってゆく。 唄に謎めいた言葉を散りばめ、 謎の唄が何度も歌われて、 そのミステリーがストーリーの展開とともに徐々に明らかとなるというような構成はどうだろう。 あまりにミュージカル志向の発想だろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Nov 25, 2007 01:01:11 PM
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