カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
「空気のダンス
デッサンから飛び立った少年少女 世界の舞踊家・勅使河原三郎が十代の若者と新しい美の価値観に挑戦するダンス!」 ……という触れ込みだったが、 「挑戦」といえるような体の極限への挑みもなく、 「十代でなければできない」意外性もなかった。 上演前のウォーミングアップの光景と延々1時間付き合わされたに等しい。 音楽会と思って会場へ行ったら、開演5分前のオーケストラピットの練習音を延々1時間聞かされ「これぞ現代音楽でござい」と言われ、木戸銭5千円は戻ってこなかった。 たとえて言えばそれだ。 先に褒めるところだけ褒めておく。 公演の最初と最後に舞台を深いふかい呼吸の音で満たし、ホモ・サピエンスが出しうる風(かぜ)の音の美しさを発見させてくれたのは収穫だった。 音楽構成は、キース・ジャレットのピアノ演奏を思わせる、そつのない出来。 シンプルだが想像の翼を広げられそうな舞台美術も、ウルトラモダンの能楽堂といってよろしい。 しかし、腕をまろやかに振り回し、胴体をくねり揺らすことに終始する舞踏は退屈だった。 それを「空気の動き」と言えば言え、 様式美を拒否し 動きの角度やタイミングを揃えれば美しくなるものさえも揃えさせず 藝の智慧を授けぬまま少女9人、少年4人を動き回らせた。 けっきょくそれは舞踏でも舞踊でもなく、作品ですらなかった。 振付の勅使河原三郎(てしがわら・さぶろう)氏は、少女少年の好き勝手な動きから何かあたらしい価値が創造されると期待したのだろうか。 様式美を拒否し 「十代でなければできない」「未知なる物への挑戦」に期待しようという、オトナの側の頭でっかちな思い込み。 その犠牲にされた少女少年たちは、けっきょくオトナから示唆された定型以上のものを何ら生み出さず(あたりまえだ!)、身体は凡庸な動きに終始した。 「きみたちが音楽から感じるままにからだを動かしてごらん」 企画したオトナのそんな猫なで声がむなしく虚空に響く。 それでも、これがたとえば現代美術館の展示の一角での特別パフォーマンスとして5分間にまとめられていたら、ぼくはたぶん賞賛したと思う。 賞賛も批判も勅使河原三郎さんが一身に負うべきもので、終演後の13名の少女少年への拍手はおしまなかったが、せめて舞台で礼をするときの頭の下げ方の角度くらい指導してやれなかったものか。 頭の下げ方の深すぎる子、浅すぎる子。 指導をせぬことを良しとする時代おくれの学習指導要領を想起した。 いちいちそんなことでと言われるかもしれぬが、「揃う」ことも美のうちだ。 (きょう6日まで新国立劇場で。そのあと4月13日に富山市、4月20日に松本市で公演。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Apr 6, 2008 02:37:39 PM
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