カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
いい舞台だった。だから、
観るなりの準備をしてから観劇すべきだったと、申し訳なく思った。 チェーホフの名作戯曲『かもめ』についての予備知識ゼロで劇場の席についてしまったのである。 登場人物は一方通行の恋慕の火花をいくつも散らしながら右往左往し、何かの中心に引き寄せられることなく、したがって図太いストーリーがあるわけでもない。 長いセリフの数々は、ひとつひとつ味があるのだけど、ストーリーへの関連は必ずしも明らかでない。 『吾輩は猫である』のなかの講釈みたいな饒舌。 予備知識なしで「かもめ」を観たぼくは、ストーリーを掬いあげようとして疲れきってしまった。 (席が2階の最上層、舞台から最も遠い場所だったのも無謀だった。 こういう濃密なストレート・プレイは、もっと近くから観るべく気合を入れて切符を取るべきだった……。) 第3幕まで演じられたところで幕間の休憩となって、プログラムを買って目を通した。 登場人物の相関図を知り、そもそもストーリーらしいストーリーのない芝居であることを知ったところで第4幕を観たら、俄然おもしろかった。 悲劇なのに喜劇に仕立てる横紙破りな勢いがいい。 予備知識を持って観れば、第1幕からおもしろかったろう。 悔しいから、もう1度観たい。 「かもめ」が何度も上演されるのも、うなづける。 能舞台を思わせる舞台美術が冴えていた。 2階席だったからよく分かったのだが、三角形の演劇空間から4つの渡り廊下が左手へ2本、右手へ1本、奥へ1本渡されているような造りだ。 第1幕は、湖のほとりに急ごしらえの仮設舞台が設けられ劇中劇が演じられるのだが、何もないところに湖が見えてくるから不思議だ。 そして劇の最後に起こる「事件」。 劇のなかの唯一の事件らしい事件は、 舞台から見えないところで起こったにもかかわらず、舞台上の鮮烈な照明によって観る者の心のなかに残り、意味を自問させ続ける。 舞台美術がシンプルだからこそ、照明効果が十二分に生きた。 鹿賀丈史さんの演じる作家トリゴーリンは、沈着さのなかに熱情がほの見える魅力的な存在。 登場人物のなかで比較的分かりやすいキャラクターだったからか、小島 聖(ひじり)さんの「黒い服のマーシャ」が気にいった。 麻実(あさみ)れい さんの演じる女優アルカージナの懲りない「いたぶり役」ぶりも堂に入っていたけれど、劇前半の素っ頓狂な叫びの甲高さが時として耳障りだった。 あれは、わざとそういう演出だったのだろうか……? 藤原竜也さんの主役トレープレフは、ぼくが観た舞台では やや深刻みが勝ちすぎていたように思うが、これからだんだん遊びが入って練れてゆくのだろうか。 赤坂ACTシアターの売店では、プログラムや関連グッズとともに、沼野充義(みつよし)さんのみずみずしい新訳「かもめ」を掲載した『すばる』7月号も売られていた。 登場人物解説には、藤原竜也さんをはじめとする今回の配役も書かれている。 プログラムを買うなら、こちらも一緒に。 いつの日か『かもめ』のロシア語原作も読んでみたい。 「ロシア語もやっておいてよかった」と、きっと思わせてくれるに違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jun 29, 2008 07:16:28 PM
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