テーマ:中国&台湾(3304)
カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
“Hiroshima mon amour” (ヒロシマ、わが愛) を意識したのであろう邦題 「天安門、恋人たち」。
原題は 「頤和園 (いわえん)」、英題 “Summer Palace”だ。 平成18年の作品。中国では上映禁止になっている。 物語は昭和62年から平成12年にわたる。 『時が滲 (にじ) む朝』 もそうだが、平成元年6月の天安門事件前後を描いた部分が世間的には注目を集める。 しかし、ほんとうの読みどころ・見どころは、6・4事件から10年以上を経たあとの、それぞれの人生、それぞれの思いだ。 それこそが、予想を裏切り想像を飛び越え、読む者・見る者の心をゆさぶってくれる。 大学にほど近い、清朝末につくられた頤和園の人工湖にただ1艘のボートを浮かべて、うつくしい娘、余紅 (よ・こう) と、もの静かな青年、周偉 (しゅう・い) が、もっとも自然の姿で並んで横たわる、その水の静寂。 心の奥に残る映像だった。作品原題が 「頤和園」 なのも、納得がいく。 若さは盛んな行動を伴うけれど、内面は意外にも虚無の洞 (ほら) だったりするのだ。 暮れてゆく頤和園の水のように。 11年後の再会はその逆で、ふたりの外面は虚無がおおうけれど、内面は激しく逆巻く。 映像化しがたい内面を、ふたりがたたずむ河北省・北戴河 (ほくたいが) の砂浜に寄せる荒波が表現してくれた。 田舎町で心と体を寄せた相手からタバコを吸うことを習った娘、余紅は、北京に出てきてからも、男に心を開いては、くずおれ、突き上げられる。 素朴なセックスが点景のように見えては消えてゆく。 「え、また?」 とさえ思えるセックスシーンの頻繁さに、いかなる必然性があるのか、最後になって合点がいく。 乾ききった映画 「バベル」 のように、最終章でこの映画 「頤和園」 は人間の心のずたずたを実にドライに描くのだ。 砂漠のかさかさした音が聞こえてきそうなほどドライに。 ふたりがふたたびセックスで互いを確かめ合うのだろうという想像をみごとに裏切る構成には、負けた。 余紅を演じている女優の赫蕾 (かく・らい) さん (正確には 「赫」 は 「赤+おおざと」) は、笑うと田中美佐子さんのように愛くるしい。 思春期さえ香る歓びも、あらゆることばを拒絶する空しさをも、よく演じ切った。 昭和53年、吉林省生れ。平成12年に上海演劇学院俳優科を卒業している。 本格女優としてこれだけの表現力があって、からだをここまでさらけ出して。 「バベル」 の菊地凛子 (りんこ) さんを思い出した。 相方の周偉を演ずる郭暁冬 (かく・ぎょうとう) さんは、若いころの山崎 努さんを思い出させる。 シャイな表現ぶりには、ときに いささかの ひ弱さも感じたが、物静かな外面と内にこもった情感の重層を演じて、知性的な役柄をよくこなしていた。 昭和49年、山東省生れ。平成12年、北京電影 (=映画) 学院俳優科卒業。 天安門事件のころ、わたしも北京に駐在していた。 時代考証的には、街の酒場や学生寮のようすがいささか新しすぎる。 (学生さんたちのセックス環境は外国人にはうかがい知れぬ世界で、コメントのしようがないけれど。) 燃え上がる軍用トラックに石を投げつける学生群像は、ひとつの象徴としてリアル。 そこに銃声が聞こえ、やがて現れるロボットのような共産党軍の兵士らは銃口を上に向けて、空砲を撃っている。 実際には、天安門に達するまでに一部の兵士は銃口を横に向けて実弾を撃ち始めたのだが (当時わたしの親しかった中国人の息子も、路地に潜んでいたところに流れ弾がきて臀部に重傷を負った)。 空砲を撃つ兵士にとどめたことで、無用な政治性から自由になった。 目下の中国共産党にとっては許容範囲外だとしても、映画 「頤和園」 に、中国共産党糾弾のメッセージ性はない。 時代をかけぬける女と男のギリギリのところを切り取った秀作だ。 (渋谷の シアター・イメージフォーラム で上映中。 秋には、大阪の第七藝術劇場、名古屋のシネマスコーレでも上映予定。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Aug 9, 2008 09:13:44 AM
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