テーマ:中国&台湾(3305)
カテゴリ:中 国 界
尖閣諸島は琉球王国の統治下にはなかったわけである。
福建省でもない。 「むかしから台湾の一部だった」 という苦し紛れの主張が中国共産党の立場だが、清朝の地理書 『大清一統志』 (1842年) には、尖閣諸島はおろか、それよりも台湾に近い小島さえ言及されていない ―― というのが、拓殖大学の下條正男教授の研究結果だそうだ。 日本政府が明治28年 (1895年) に尖閣諸島を日本領に編入したとき、無主の島であることをどのようにして確認したのか、そのときの調査の全貌を明らかにした研究があれば読んでみたいのだが。 産経新聞 平成22年11月4日 2面 ≪尖閣に新証拠、中国主張覆す 清代公式文献に 「台湾の一部ではない」 拓大教授が指摘 日本固有の領土である尖閣諸島に絡み、中国・清の乾隆帝 (1711~99年) の勅命で編纂された地理書 『大清一統志』 に、台湾 (府) の北東端が 「鶏籠城 (現在の基隆市)」 と記されていることが、拓殖大学の下條正男教授 (日本史) の調べで分かった。 中国は尖閣諸島を 「昔から中国の領土で、台湾の付属島嶼であった」 として領有権を主張しているが、尖閣諸島は基隆市から、約300キロも離れており、清代から 「台湾の一部でない」 と認識されていたことを示す資料として注目される。 (喜多由浩) ◇ 『大清一統志』 は清代に 3度、編纂され、1842年に完成した第三次編は全560巻に及ぶ。 下條教授によると、台湾(府)に関する記述は第335巻にあり、同書はその北東端について 「北至鶏籠城 (北、鶏籠城に至る)」 と記載。 同本に収録されている 「台湾府図」 にも 「鶏籠城界(境)」 と書かれていた。 同時代の台湾の地方誌 『台湾府誌』 にも同様の記述があるほか、台湾の付属島嶼の範囲が緯度、経度で掲載されている 『淡水庁全図』 (1871年) でも、尖閣諸島は 「その範囲外」 になっていた。 これらの文献や地図には1905年に台湾に編入された台湾北部から約70キロ離れた 3つの小島 (棉花島など) すら、記載されていない。 下條教授は、 「台湾からさらに遠く離れている尖閣諸島が現代まで一度たりとも 『台湾の一部』 だったことがないのは明らかだ」 と指摘する。 日本政府は、1895 (明治28) 年、尖閣諸島に清の支配が及んでいないことを確認した上で、正式に領土に編入した。 一方、中国は石油資源などの埋蔵が明らかになった1970年前後からにわかに領有権を主張し始め、1971年12月30日の外務省声明で、 「釣魚島などの島嶼 (尖閣諸島) は昔から中国の領土である。早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域の中に含まれており、それは琉球 (沖縄) に属するものではなく、中国の台湾の付属島嶼であった」 などと説明していた。 下條教授は、 「尖閣諸島が 『台湾の一部でない』 ことを示す中国の文献は、これまでにも見つかっているが、清代の公式の地理書である 『大清一統志』 にこうした記述が残されていた意味は大きい。中国の主張が、まったく根拠のないものであることは明白だ」 と話している。≫ * * * ↑ クリックすると、外務省情報文化局 「尖閣諸島について」 (昭和47年) が読めます (『世界日報』サイト) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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