カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
予告篇を見るたび ほろっと来ていたので、映画本篇を見たら最初からぼろぼろになるのではないか。
そう思って観た映画 「レ・ミゼラブル」 だったが、冒頭の囚人による巨船の船曳きにはじまるリアルで凄みのある映像の数々が圧倒し、脳は涙の回路ではなく異空間にほうりこまれた。 きかせどころのアン・ハザウェイさん演じるファンテーヌの 「夢やぶれて」 も、脳はじっと聴きいるだけだ。 映画最後の壮大なパリ蜂起シーンで、ようやく来はじめて、映画が終わってエンドロールが流れ出したところで、つまり演劇であれば拍手の嵐というところで、静かな客席でぼくは おいおいと泣きじゃくった。声は出さなかったけれど、一気に号泣した。 こんな形で感動する映画は、はじめてだった。すごい映画だ。 役としてはサマンサ・バークスさんのエポニーヌが断然よかった。彼女の 「オン・マイ・オウン」 には、じんと来た。 やはり笹本玲奈さんの役ということで、エポニーヌに思い入れがあるからだろうか。 帝劇のエポニーヌの舞台化粧は、やたらと顔に煤を塗るのが不満で、笹本玲奈さんにもいちどご意見したことがあったのだけど、映画を見るとサマンサ・バークスさんは顔に煤など塗っていない。やはり、煤は余分なのである。 対決するふたりの主人公。 風貌的には、ジャン・ヴァルジャンを演じたヒュー・ジャックマンさんのほうが、抜け目なく悪をあばこうとするジャヴェール警部に似つかわしい。 逆にジャヴェール警部を演じたラッセル・クロウさんのほうが苦労人のジャン・ヴァルジャンにすっとはまる感じだ。 ラッセル・クロウさんがもっと痩せ形だったらなぁ。彼のジャン・ヴァルジャンが観たかった。 = 【平成25年1月追記】 圧倒的な描写映像に支えられたジャン・ヴァルジャンやファンテーヌよりもエポニーヌに感動したのはなぜなのか。 リアルに描きつくした映画の感動よりも、帝劇の舞台のほうが感動が深かったように思うが、それはなぜなのか。 自分の想像力の翼が存分に広げられたかどうかではないだろうか。 ジャン・ヴァルジャンやファンテーヌのみじめな境遇は、観る者が想像力で補う余地もないほどに、映像の雨が降る。しかし、エポニーヌがどんな人生を経て、マリウスにどのようにして出会い、慕いはじめたのか、映画は一切説明しない。 そこに想像力の翼を広げる場がある。想像の翼を広げながら、ぼくらは涙を流す。 物語作品は、ドキュメンタリーではない。 直接的に記録されていない部分に思い及ばせ、想像が鮮烈な気づきに導いてくれる、そういうちからが演劇にはある。だから感動は深い。 映画 「レ・ミゼラブル」 をひたすら観察者のように観てしまったのはなぜだろうと自問しつづけていたのだが、きっとその理由は、ぼくの想像力をはるかに凌駕する映像に圧倒されて、想像の翼がはばたかなかったからだ。 エンド・ロールとともに、翼は宙を舞い始めたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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