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カテゴリ:知の構造、地の構造
日記書けないのは、今、考えていることがとても文章にはしきれない感じだからなんだな。
はじめから行き詰っているような感じではあるのだけれど、書き始めてみるのね。 ようちゃん2号、「鏡像段階」っていうのにものすごく興味がある。 ようちゃん2号的に鏡像段階を説明すると、ひとことでは、「私を手に入れる」という段階だな。 『人が「私」を手に入れるその方法は、幼い頃(6ヶ月から16ヶ月らしい)に【鏡を見ているうちに、そこに映り込んでいる像が「私」であることを直感する】ことによって起きる。』らしい。 私が「私」であることを把持するのが「直感」にならざるを得ないのは、幼児本人がまだ完全な言葉を手に入れていないからだと思う。 直感でしかわかることができない。 (説明できるだけの言葉をそのときは持っていないからね) んで、直感で手に入れた「私」を把持した状態を人は記憶にとどめていて、「わかった」という感覚を手に入れるのではないか…?って思う。 ようちゃん2号の言いたいことがわかるかな…? 『人は、私が私であることがわかった瞬間に、「わかる」という感覚を手に入れるような気がする』ということだよ。 すっ飛ぶようだけれど、このごろようちゃん2号なりに思うのは、「信じる」っていうのも、「わかる」にけっこう似ている感じがする…。 『人が、私が私であることを直感で確信するのと同じように、「信じる」っていう感覚を手にする』っていうように思う。 「わかる」「信じる」の手触りって、直感によるところが大きい感じ…。 たぶん全員の人が「わかる」「信じる」という言葉をわかるのにはわけがあって、このような機制が働いているんだと思う。 ところが、多くの人は、この「わかる」「信じる」をどうやって自分が手に入れたか、それを忘れ去っているように思う。 自分が「わかる」「信じる」を手にいれた方法は忘れているのだけれど、「わかる」「信じる」が人の共通した理解だということは「わかる」し、「信じる」ことができるということが起きている。 「わかる」「信じる」がなぜ人は共通理解としてわかるのか?の不思議さに気がつかない人が多いような気がしているのね。 そのことにみんなが気がつくことがいろいろなことへの突破口になるような気がしているの。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月23日 09時47分14秒
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