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カテゴリ:コラム
エイゼンシュテインには「『資本論』映画化のためのノート」(全集4、キネ旬所収) という論考がある。
1920年代後半まで、エイゼンシュテインは本気で『資本論』の映画化を考えていた。 詳細は全集に譲るとして、彼のアイデアの形式面での特徴を要約すると、資本主義という構造の中に取り囲まれた場合、その対抗運動は意識の面では反復にならざるを得ないということだ。 資本主義という構造の外に容易に立つことは出来ない。そして、資本主義の内部で闘うこと、しかも日常(という交換の場)で闘うこと自体に意味があるのだ。 したがって、ジョイスの意識の流れを形式面で採用することは必然なのだ(「形式面はジョイスに捧げられる」ノートより)。 もちろんエイゼンシュテインが言うように、『資本論』は「社会民主主義」(資本主義により拡がる貧富の格差を、民主主義的な議会主義という外観を装いつつも国家による収奪・分配によって補完する)に対する外部からの最大の批判である。しかし、そもそも資本論の素材は国家の側から提出されたものであるから、はじめから完全な外部はあり得ない。また、その説得力ある映画化を実際に起こった出来事(ニュース)に素材を得た形で行なうとすれば、1997年のアジア通貨危機など後年の素材を待たなければその説得力は十分なものにならなかったかもしれない。 山田和夫(『日本映画の歴史と現代』)が指摘するように『全線』の冒頭の財産の分割が利益にならないといった教訓をあらわす描写は、『資本』を描くという意味で成功しているし(このシーンは何よりも同一化への欲求を表しているのだが、このロシア人特有の主題に関しては別稿が必要だと思う)、『イワン雷帝』などの経済分析は、資本論の映画化の構想の延長と言っていいと思う。 ちなみに価値形態論の図式をエイゼンシュテインが『十月』でやったように逆モーションにするとほとんどLETS(通帳式交換システム)の理念になるのではないだろうか。 意識の流れということであれば『アメリカの悲劇』の構想も資本論の延長である言っていいだろうし、晩年の立体映画論(「立体映画について」1947年)こそは、『資本論』映画化のアイデアのうちの、階級闘争としての映画を理念的に発展させ得たものだと思う(この論文を要約すれば、映画における四次元は技術的にも思想的にもプロレタリアートのために開かれる、というものである)。 ただ、『ストライキ』における映像表現などを見ると、エイゼンシュテインの作品群は実はアナーキズムの発露としても見ることができるのではないか?(ドゥルーズ『千のプラトー』における『ストライキ』内の複数の穴の描写の指摘を参照。また、メイエルホリドの身体論や空間演出もコミュニズムからアナーキズムに転回し得るものだ。) われわれに残されたエイゼンシュテインの遺産(黒澤はエイゼンシュテインの影響でカラー映画を撮り、タルコフスキーは『イワン雷帝』を見て映画監督を志した)は、まだまだ可能性を秘めていると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年09月17日 21時42分55秒
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