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テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:コラム
黒澤明が『夢』(1990)中の一編としてシナリオには書いたが、映像化を果たせなかった作品に「素晴らしい夢」というエピソードがある。
世界中の武器を集めて来て廃棄し、世界の人達が平和を宣言するというものだ。 僕はてっきり黒澤自身の願望を述べたもので、本気で映像化を考えてはいなかったとばかり思っていたのだが、美術スタッフである村木与四郎氏と上田正治カメラマンの証言によると、サンフランシスコでロケハンまでして撮影場所まで決めてあったという。確かに残された絵コンテの一部を見ると、黒澤が本気であったことが解る。黒澤自身が描いた、気球を使った切り替えしのショットの絵コンテがすでに発表されている。 絵コンテとはいえ、ものすごい迫力なのだ。 さて、ここで僕が提示したい主題は世界の軍隊の武装解除はいかにして可能か? ということである。 僕はその大前提として、敵というものを自らの内部に抱え、アンチノミーとして維持し続けることが大事だと考えている。 プルードン(1809-1865)の言葉に倣って説明するなら、アンチノミーとは決して解決しない矛盾である。 ブッシュのように、自分の中の矛盾に眼を向けず(アメリカこそ大量破壊兵器を持つ)、自らの中の敵を他者に投影することで闘いを外部化するとき、それは戦争という形を取る。 権力者でなければこれは、たんなる妄想として罪のないものだったろう。あるいはブッシュがテキサス州のいちプロ野球チームのオーナーだったとしたら、それは強くて人気の球団経営に役立ち社会的な「昇華」(フロイト)を果たしたかも知れない。また、ブッシュがもしインターネットを操るしか能のない、たいした社会的資本(コンピューター自体には可能性がある)を持たない軍事オタクだったとしたら、それは対して害のない微笑ましいイタズラをするだけに終わっただったろう。 だが、ブッシュはイラクのフセイン大統領に自己の矛盾の片方(悪)を投影し、ありもしない大量破壊兵器を捏造し、国民を戦争に駆り立てたのだ。これによってたくさんの民間人が殺されたことは言うまでもない。 ブッシュは戦争に民主党によって純粋主義者と言われているようだが、自己の内部にアンチノミーと言う名の矛盾を抱えきれない人間がいかに危険かをアメリカのリベラルは気がついているように思う。 黒澤明はブッシュとは違って、こうした矛盾の片方(悪)を誰かに投影するのではなく、矛盾そのものを映像化して来た。彼の作品内における登場人物同志の葛藤は勿論、人物と自然の葛藤、そして何よりも戦いのイメージの形象化によって今日世界の巨匠とされているのだ。僕は『乱』を世界美術至上最高の作品と考えているが、シェークスピアの『リア王』を読み返しても、ここで戦争シーンがないのはしっくりしないな、と考えてしまう程だ。それほど黒澤は的確に「矛盾」というものを見事に形象化し、繰り返すなら悪を他者に投影するのではなく、その葛藤自体を表現し続けて来たのだ。これは黒澤が自らの持つ矛盾に向かい合って来たのだ。 ただ、実際にはスピルバーグの資金援助にもかかわらず、映画化されなかったというエピソードは、社会的に見れば作者の情熱と資本の問題という永遠に解決しない全く別の矛盾を提示しているようにも思う。 僕はこちらの矛盾の方が大事にも思えてくる・・・ こうして、この黒澤明の映画化されなかったエピソードは、映画化されなかったからこそ、一種のアンチノミーとして、(さらに説明するなら)集まらなかった資本と黒澤自身の情熱的倫理観というアンチノミーとして僕を刺激し続けているということになる。 ブッシュのように敵を外部(ブッシュの場合はフセイン)に投影することで一時の自己満足を得るようなことをせず、アンチノミーの認識を維持し続けること、つまり本当の矛盾に眼を向けること、またはひとり一人が自己の矛盾(アンチノミー)に気がつきそれを維持することこそが、結局問題を棚上げずに、現実世界における実際の武装解除につながるのだと思う。 世界の人間が望むその夢を、日本の一人の天才がいち早く気づき、その夢を絵コンテに託したこということに感謝したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年10月11日 07時06分25秒
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