カテゴリ:吉雄のつれづれ
初めから不特定多数の多くの人が納得いくように
論じようと思うととても難しい。 さらに、様々な歴史や話を聞いたり勉強すると とても上手い論文に出会ったり カリスマ的文章によって目からうろこが落ちる体験をしたり 難解に書かれているのにとてもわかりやすかったり 上には上がいっぱいいる。 自分の思う論を書き表そうとしても・・・自分では無理と 投げてしまいやすくなる。 もっともっとすごい説得力のある言葉がある。 それに出会い肥えてしまって、自分の論が許せなくなる。 そんなことがあるなと思って。 私は絵描きです。 しかし、ダビンチほど上手くありません。 足元にも及ばない。 もう最近は筆もクレヨンですら、落書きでしか持ってないので 世の人が思う「絵描き」なのかどうかすら怪しい。 でも、私は絵を描いて生きている。 私はダリの絵が好きで、でも彼の絵をマネしたいわけではない。 私は私の表現で、できる限りの事をする。 レンブラントのように影と光でドラマチックに絵が書きたいなと思う。 技法はしってる。 私は相当、頭でっかちである。 30年間w絵しかやってないw そりゃーーー相当、目も肥えていて頭でっかちだ。 やってみたいと思ったら 何でもやる。 そして自分の描けるレベルもだいたい知ってる。 もちろんこれからも同じ感じで書いて行きそう。 未来が見えている気がするけど、それは外れる予測。 2年前に今この地にいることすら予測できていないのだから。 沢山の名画を見て、沢山の芸術品を見て 世の中にあふれる創作物(ビルでも看板でもなんでも)から 陶器や装飾品まであらゆる素敵なものに出会い 同じように素晴らしいものができないから、絵をやめるか? 素晴らしいものを見たから、凹むか? 素敵な色を見て、その色を出せないからと悩むけれど 心はどんどん豊かになっていく。 スランプになったら、美術館やらデザイン展やら見に行く。 そういうのが無くても、デパートでもコンビニでも 現代の作品がいっぱいだ。 そこで元気になってまた書きだせる。 アウトプットする物を許せ、世に出せるかどうか 自分にかかっている。 その後の反応は、実は思ってた物と違うかもしれない。 これはダメだと自分で思っていたものが、 意外に高評価って結構ある。 これは絶対凄い!と思って出して、ケチョンケチョンってこともあるw しかし、コアなファンをゲットできたりする。 人が何に感動するかも色々。 そういうのを体感していくと、打たれ強くなっていく。 鈍感になるというのではなく。 お釈迦様もキリストも、であった人によって 説明したいものを、どうやったら理解しやすいか考えて 人によって言う事を変えている。同じことでも。 誰にでも受ける、理解できる、好かれる、 愛されるを目指したら、スランプになる。 「誰にでも」という自分の中にある「誰でも感」を 追っているうちは、雲をつかむようなもの。 ターゲットをギリギリまで絞ってみると、案外すんなり描けたりする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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