みぃつけた!
以前からずっと探していた「館林須坂両藩兵戦記」漸く発見先日、道端で偶然お会いした先生にいきなり話しかけ、教えてもらったのだ~。やったね、ワタシしかしあんなところで逢えるなんて凄い偶然。う~ん、土方さんのお導きか…。ありがとう土方さん(チガウダロ)さっそく国会図書館へ見に行きましたさ。どうしてこの史料が見たかったのかというと新政府軍から見た旧幕府軍の話だから。身内の話はどうしても身びいきが出るし、片側からしか見ないんじゃ不公平だからね。近藤さん亡き後の土方さんは、将として城攻めをしたり、いろいろ戦闘しているけど相手側からはどう見られていたのか?というのは気になるところさてさて。新選隊指揮官土方歳三は、総野其他に勇名を轟かし久敷官軍に拮抗し居たるが、遂に北海の函館に遁がる。而して同地に在って仙台脱藩星恂太郎、佐幕派古屋作左衛門、中島父子等と共に、各所に勇戦し函館の防御愈々危うしと看るや、真先に陣頭に立ち部兵を提げ山上の官兵を突破せんと、乗馬にて谷地頭の中腹まで攻め登りたるも、武運拙なく敵弾に中りて、終に悲壮の最後を遂げたり。噫々(ああ)さきには京師に在って、會津藩と共に禁庭を守護し勤皇無二の勇将と呼ばれしが、一朝事志と違ひ賊名を負はされながら、尚幕府に盡(つ)くすは朝廷の御為なりと、飽くまで自信を翻さざりし一事は、日本国民の同情永へに盡きざる可し。…。思ってたより、凄い書き方じゃない?會津、新選組なんて言うのはこの当時(発行は1917年(大正6))ばりばり賊軍でしょ。それをこんな風に書いてくれる人がいたなんて…。うれしいですぅ。やっぱり皆わかってるんじゃない。會津が朝敵なんかじゃないって事。コレを書いた藤野近昌は館林藩士。戊辰戦争時17歳で出陣。慶応4年4月の結城、沼田への出兵と、同5月から宇都宮、棚倉、三春、二本松、白河と転戦し、同年9月の会津若松城開城により凱旋するまでの従軍記録です。詳しい内容はこれから読みますが、かなり新選組とはニアミスな気がしますな。これらの情報をどこから仕入れたのかも気になるところですが、土方さんのほかに中島三郎助さん、古屋作左衛門さん、星恂太郎さんの事も書いてます。え?大鳥さん?書いてるけど…。伝習隊指揮官大鳥圭介は、総野の間に一時勢ひを振ひしが、宇都宮を失ひ、日光今市に破ぶれて、遂に會津に入る。されど、間もなく手兵と共に會津を脱して、遠く函館五稜郭に據(よ)る。亦た破ぶれて、後ち、榎本武揚らと共に官軍に降伏せり。なんか「失い」「破れて」「脱して」「破れて」「降伏」だな~。「一時勢ひを振ひし」って土方さんが落とした宇都宮城の事でしょう?それにしても土方さん。敵方にも「真先に陣頭に立ち」って思われてるところが何とも「戊辰之役館林藩一番隊奥羽戦記」ちゃんと読んだらまた書きたいことが増えるでしょう。つづく