中津城の運命
中津城が売りに出された。という話を聞いた。(今頃遅い…)「中津城売ります」・・・売却めぐり賛否両論 「日本三大水城」のひとつと言われる中津城が、同城を所有する旧藩主である奥平家の現当主が社長を務める中津勧業(株)(本社:大分県中津市二ノ丁1273、代表:奥平 政幸氏、電話:0979-22-3651)が、年間の維持費と観光収入のバランスが悪く、所有していることが負担になっていることから、今回売りに出す決断をしたようだ。 中津城は、豊臣秀吉の側近として使えた知将、黒田如水(黒田官兵衛孝高)が同地を治めていた1588年に築城したもので、その後は、細川忠興や小笠原長次などが引き継いだ後、奥平昌成が1717年に同地を治めて居城としてからは、明治維新まで代々奥平家が中津城主を務めてきた。 梯郭式平城で、縄張りが扇形をしているため、別名「扇城(せんじょう)」とも呼ばれている。 周防灘(豊前海)に臨む山国川河口の地に築城されており、堀には海水が引き込まれる水城で、日本三大水城の一つに数えられている。北に二の丸、中部に本丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をした縄張りは非常に美しい。 現在の城跡には、5重5階の天守と2重の櫓が存在しているが、これは1964年に萩城(山口県)天守を模して薬研堀端の隅櫓跡に観光開発を目的として、鉄筋コンクリート造で建てられたもの。模擬天守・天守風建造物などと呼ばれる城であるが、倉庫などとして使われた櫓も再建され、周辺は城下町の面影を残すなど整備されており、大分県中津市の観光名所のひとつ。 しかし、維持費が年間入場料収入の約1,000万円を上回っており、採算が合わずこれ以上の所有は難しいと判断したようで、最低でも3億円で売りたい意向。 これを受けて中津市では、同社が手放すと、城がレジャー施設などになる恐れがあるため、地元の文化団体などは市に買収を要求しているが、市側も財政難を理由に買収に反対する意見も多く、賛否二分の現状だという。(2007年10月15日 15:20) で、その後賛否両論まだ決着はつかないらしい。市購入是か非か/中津城売却問題売却問題で揺れる中津城天守閣=中津市二ノ丁で 約3億円で売りに出された中津城の天守閣などを中津市が買い取るべきかどうかを巡り、賛否の陳情が市に相次いでいる。県文化財保存協議会(神戸輝夫会長)の代表らも23日に市役所を訪れ、市が購入するよう陳情した。新貝正勝市長は「市民や議会の声をよく聞いて対応したい」と慎重な構えだが、陳情合戦は市内外の文化団体なども巻き込んで一段と熱を帯びている。(井口勝夫) 天守閣などは、所有者で、最後の藩主・奥平家の子孫でもある奥平政幸さんが社長を務める「中津勧業」(中津市)が売りに出している。 奥平さんによると、天守閣は64年、当時の市長や市民らから「観光振興に」との要請を受けて奥平家が建てた。5層5階の鉄筋コンクリート建てで、館内では奥平家ゆかりのよろいや絵図などを有料で公開している。 だが、事業運営や経営環境が厳しくなったことに加え、「市の対応に不満がある」(奥平さん)として、天守閣と敷地などを売却し、東京に戻ることにしたという。 この天守閣などの売却の動きに対し、隣接する福岡県の吉富、上毛両町も含む地元の6文化団体が8月、「天守閣は建設されてから久しく、中津城の重要な景観になっている」とし、中津市に買い取りを陳情。同じく北九州市の「豊前の街道をゆく会」(池浦正勝代表)も今月11日、「中津城は市民だけでなく、旧豊前国にとっても貴重な宝」として、市に対して購入を求める陳情をした。 県文化財保存協議会の神戸会長は、中津城の天守閣は「文化財」ではないことを認めつつも、「市民に愛されてきたし、周辺の景観をつくっている。第三者に渡れば、どのような使い方をされるか分からない。伝統ある風景地区を残すためにも市が購入すべきだ」と話している。 一方、財政難から、行財政改革を進めている市が、天守閣を購入することに反発する市民の声も多い。 今月18日には、市民運動グループ「草の根の会」代表の梶原得三郎さんら市民4人が「財政事情が厳しい中、耐震強度が疑問のうえ、維持費もかさみ文化財でもない天守閣などに3億円もつぎ込むのは血税のムダ」と市に反対陳情をした。市議会議員の意見も、賛否両論に割れている。 陳情に応対してきた合沢伸一・市産業振興部長は「市民には判断材料を示してから、賛否を聞きたい。そのためにも中津勧業には売却の真意を聞きたいが、なかなか話し合いが進まない」と話している。 (2007年10月26日:アサヒドットコムマイタウン大分)う~んま確かに歴史的な価値はないそうで、天守閣もキチンと復元したものではなさそう。文化財ではないからムダ。というキモチもわからないではないがなんだか残念だなぁ。(イヤまだ壊すと決まったわけではナイさてさてこのお城騒動。どんな決着がつくのやらなんだかとてもステキな城のようだが、もったいないねぇ。(ダカラ壊すとか言ってないし)この奥平家は照姫が一度嫁して、戻ったところ。まんざら会津とは無関係ではないのだ。照姫がこの城に入ったのか、どのくらいの期間奥平照としてここに居たのかは知らないけれど、江戸からはるかに遠い地でどんな暮らしをしていたのかしら?その照姫どうやら和歌集があるのだそうだけど、お問い合わせにお返事は無し謎がいっぱいなのだ