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カテゴリ:杉山千佳(子育て環境研究所)
杉山です。
これから週に1回、わたしが読んだ本の感想なり、考えた ことなりを書いて、アップしようと思っています。 ブログマネジャーの松田さんに相談したところ、水曜日枠で ということだったので、今後は水曜にアップできるよう がんばりますが、ともかく一回目ということで、最近読んで ちょっと元気が出た一冊をご紹介します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『社会をつくる自由 -反コミュニティのデモクラシーー』 竹井隆人著・ちくま新書 著者はわたしより若い人なのだけど、文章が古風、硬い 正直、ちょっと読みづらい。でもがんばって最後まで読み ました。 それはなぜかというと、彼の考え方、それを世に問う 姿勢が、とても真摯であったから。 NPOの世界などにいると、「コミュニティ」は必要なもの と頭からきめてかかって、 「みんなでつながろう!」 「つながってさえいえれば、きっと世の中よくなる!」 「つながりから社会が変えられる!」 なーんて、思っちゃうし、言っちゃうんだけど、 著者はそれを、冷たく、鼻で笑うのです。 「『仲良しコミュニティ』をつくったところで、それは、 結局は一部であって、世界中をつなげることなど できないしょ。 キレイゴト言って同調圧力をかけている自覚あるの?」 そうそう、ちょっとでも「違う」とはじくよね!? 時間をかけて他者を理解しようとするのは結構だが、 それで、たかだか数人の他者のことを理解したと思い 込んだとして、それで「公共性」が育まれるものだ ろうか。そんなものは、おセンチな人情ドラマに毒 されているだけではないか、と疑りたくなる。 「コミュニティ施設」が人びとの交流を活性化させる と決め込み、それが人間の精神を決定するという不遜 な思想は捨てるべきではないか。 ってな調子です。 「仲良し」だの「コミュニティ」だの、そんなこと している暇があったら、ほかにやることあるでしょ というのが本旨で、 表面的な「仲良し」「つながり感にうっとり」 ではなく、 他者はあくまで他者であるという自覚を持ち 内面から理解する目を持つ。 そのための手法が「デモクラシー」であり、 「参加」や「熟議」を持つ。 そこで個人が社会に対していかに「責任」を 負うかを問う。 という原点に戻ろうと主張しています。 「仲良しになったね。つながったねー」と満足 するメンタリティから、 「自分たちで、社会をつくろう」といった思考へ の転換が必要だと、著者は主張するのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・ これは個人的な経験によりますが、 『子育て支援でシャカイが変わる』などという 本を出したりして、「世の中を変えよう!」と言う時、 「つながってその輪が大きくなったら、変わるのでは ないか」 と、単純にイメージするわけですが、たぶんそれは 違うと思うのです。 よくよく見てみると、 つながったら、つながったことで満足してる感じが する。 つながることで「個」が埋没し、ネットワークとか 団体とか組織とかになっちゃって、本質が見えなくなる。 「へーっ、こんな依存度100%で入ってきたんだ」と、 あとでビツクリ! みたいな場面にも出くわしたりして、 そういう人に限って「ラブ」だの「ピース」だの 「コミュニティ」だの「つながるって素敵」だの 言っちゃったりして、雰囲気ってほんま、怖い。 行き着くところは、個人としての責任と自立をひき 受けるってところに尽きるのだな・・・と、この本を 読んでも思いました。 村上春樹は、文壇デビューしたての若いころ、日本人の ベタベタしたコミットメントがいやで海外生活を送った ようですが、 アメリカ暮らしをしていたとき、あの国は個人を個人と していさせてくれるので、なにもわざわざ自分から 「ひとりにさせてくれ!」とか 「個人を尊重するためにはどんなコミュニケーションが 必要か」なんて考えずにすんだようで、 日本で悩んでいたことが、どうでもいいことになった・・・ みたいなことを、話してらっしゃったけど、 そういう意味で、ある程度ものごとを考えている人 たちはわかっているけど、解決でききれていない、 「日本的」な深刻な課題って、あるのでしょうね。 著者の主張する厳しさは、ほんと、よくわかる。 「個人(このわたし)がそれぞれに、社会といかに 対峙するのか」 を、これまで一度も問わずに今日まで来てしまったことを 痛感する次第。 その解決策としては、「仲良し」も「コミュニティ」も たぶん、あまり役には立たない、むしろ同調圧力という 障害になる可能性もあるというのは、そうだと思います。 一方で、「個人が個人と対峙する」関係づくりもわたしたち あまり上手でないかも・・・と、思うのです。 そこには、「愛」も「平和」も「仲良し」も 「つながり」も「思いやり」も、絶対欠かせないと、 確信しています(当たり前ですが)。 だから、社会に向かって「なんでもかんでもコミュニティ」 って叫ぶ暇があるなら、 デモクラシーの勉強して、個々人がそれぞれの責任を引き 受けた実効性ある主張をするなり、 アクションを起こす必要があるし、 対個人(一生のうちで出会える人、しかも心を砕きたい と心底思えるような人の数なんて知れているわけだから) に対しては、愛も平和も思いやりも全身で表現するって のが、人間らしい生き方なのかもしれませんね。 そこへんの切り替えぐらいはできないと・・・。 ミクロ、メゾ、マクロ・・・で整理すると、 やっぱ肝は「メゾ」ですね。 そこは、ブラックボックス。 昔の地縁のコミュニティが、しんどかったから、みんな それを断ち切って「個」になりたがったという歴史が あるわけで、それは、「なかったこと」にも「否定」も できない。 そして、「個」になりたいと思いつつ、でも責任も自律も 自立も十分でききれない個人が、ただつながりたいだけで コミュニティを渇望したところで、それは、良い方向には 機能しないでしょうね。 マクロにつながるメゾ。 のためには、ミクロの強化。ひいては「個」の強化。 著者が言うところの「精神的体力」の強化。 (わたしは孤独に耐えるってことだと思う) そこから、 かけがえのないあなたとわたしの関係づくりが 初めてできて、そして、マクロへと続く・・・ みたいな、イメージがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 12, 2009 11:05:24 AM
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