“瀧廉太郎”
“瀧廉太郎” 『日本人作曲家』と聞くと、誰を思い浮かべるでしょうか 学校の音楽室に貼ってある作曲家の肖像画には、大抵“瀧廉太郎”と“山田耕筰”がいると思います。 名前を聞いたことのない人はいないと思いますが、「一体どんな人物でどんな功績を残した人なのでしょうか」と問われると、答えられない人が多いのではないでしょうか 私も答えられない人の一人だったので、図書館で見つけた“瀧廉太郎”の本を読んでみることにしました。 今でこそ、日本中にピアノがあり、クラシック音楽に親しむ機会は数限りなくありますが、明治初頭には、そのような環境は全くなかったことがわかります。 日本におけるクラシック音楽の創成期に活躍した音楽家兼作曲家ではありますが、今のように有名ではなかったようです。 男性初の音楽での留学生として、期待されてドイツに旅立った廉太郎は、見事ライプツィヒ音楽院に合格するが、僅か1ヶ月で病に倒れて退学をします。 無念の帰国をしてから半年後に若くして世を去るのです もう一人の作曲家である山田耕筰が、廉太郎の夭折を嘆き、「もし、もう少し長生きしていたら、日本のクラシック界は大きく発展を遂げたであろう。」と述べていることから、その才能が惜しまれます。 いずれにしても、創成期に苦学した廉太郎の功績は大きく認められているのでしょう。 ライプツィヒの街角に瀧廉太郎歿後100年を記念した碑が建てられたことでもわかるかと思います。 今度は山田耕筰の本を探してみようかな