アメリカという魔法と思考停止
今日はワシントン留学経験のある友人とご飯です。で、今日はそのときの会話の中から。日本人は海外事例というと、すぐ鵜呑みにする。友人がいうには、最近アメリカの教授がソーシャルキャピタルなる概念を書いた本を出して、それの日本語版が出た。と、いっせいに日本のその道の人たちは飛びついてしまう。そこに、批判する精神などはかけらもなく、単なる一つの仮説に過ぎないものが既定事実であるかのごとく、いかに真似するかなどの議論にいってしまう。ええ、ええ、そうなのよね。なので、私などはそういう人たちを「翻訳学者」と命名している。他人の言っていることを伝言ゲームで言っているだけで、前の会社流にいえば、自分の付加「価値」がない。(「役立たず」と翻訳できます)きつい言い方かもしれませんが、彼らのもらっている給料と社会的な注目度をみたら、それくらいの批判は受けて当然でしょう。(以前も書いたと思うけれど、アメリカの日本研究をしている人もそういう人がいる。数人の日本人にインタビューしたり雑誌記事を要約するだけ。多少は結論を書くと、要約の延長線で書いてしまうから、日本人の出す結論と何ら変わらない。わざわざ外国人であることのメリットを100%放棄している。)でも、全く以って分からない。なぜアメリカでは、ヨーロッパでは、こうしているから、といっただけで、みんな金枝玉条のように日本に輸入すべきものになるのか?大体が、福祉と言えば、北欧が先進国のようにいいますが、日本と北欧にどれだけの類似点があるんだ?あんなに人口が少なくって、人口密度も低いのに?なんて、考えるべきことは山のようにありませんか?海外事例を紹介するのはいいが、即日本に取り入れましょうというのは論理の飛躍以外何者でもない。これが、佐高・魚住のいう、「支配されたい民族」の本性なのか?未だに欧米は、日本の崇拝対象なのか?明治じゃあるまいし、いい加減捨てなさいよ、そんな概念。けれど、欧米崇拝だけで100%説明しきれないとも思う。はっきりいって、横着なんだと思う。自分で考えるのが面倒くさい。他人のをコピーすればいいや、という発想。思考停止、或いは横並び主義といってもいいかもしれない。みんなでそう思えば、アメリカがやっているから、こうしましょう。はい、そうですね、と別になぜアメリカの事例を真似しないといけないのかを、そもそも真似できるのかも説明しないで事を運べる。失敗しても、「赤信号 みんなでわたれば恐くない」的な発想なんじゃないのか?でも、他国のまねをしてみて、失敗しても、責任とるの、日本ですから。コピー元を非難してみても、何もしてくれないですから。例えば、韓国人は数人私に言います。韓国で日本式の英語教育を取り入れたので、韓国人は英語がうまくできない。最初っから失敗するのが分かってる制度を入れなきゃいいじゃん、と私は思います。そして、日本の誰も韓国で日本式の英語教育を取り入れた結果失敗したことに対して何かお詫びをしようとか補償しようとかいう話をしようなどと思わないでしょ?それと同じこと。ただ単に馬鹿だな、とコピー元の国に思われて終わり。誰も責任をとっちゃくれません。あまりに安直すぎる。この思考停止はいつまでさかのぼれるのか?私は50年代からだと思います。その時代に今の日本株式会社など日本社会の大本はみんな作られてる。で、成功へのレールが敷かれた瞬間にあとは、このレールに乗ること、メンテすることが大事で、レールの存在に疑問を投げる奴はいらなかった。質問する暇があったら、レールに乗って日本経済を立て直せ、という発想だったと思う。おかげで、質問をしてはならないとまではいかないが、限りなくそれに近い姿勢を学校で教わる。質問は?と先生がいうことってあまりないし、意見を生徒に求めることも少ない。生徒からの質問を拒むかのように山のように暗記すべき知識を大学入試試験合格という大義名分の下に押し付ける。そして、質問をするということを知らぬまま、社会にでて、上司の言うことを今度は質問せずに、言われたとおりにする。いわゆる、指示待ち人間の増殖。佐高・魚住がいうところの、「社畜」が生まれる。そうして、疑問を上司にぶつけるなどのタブーを犯して目立たないように、他人が自分より成功しないように、互いに監視しあってる。まるで、隣組のように。頭を使わないくせに、嫉妬などの感情だけは一人前にあるから始末に悪い。そんな状態がどこか不自然だから、日本の社会全体に閉塞感が生まれる。まだそれでも日本経済がいけいけの右肩上がりの状態はまだいい。けれど、高度経済成長が頭打ちになってそれほど社会が上向かなくなったときから、日本社会の持つ、その不自然さ、閉塞感に嫌気をさして、今の若者たちは引きこもりや自殺をするんじゃなかろうか?こうした不自然さ、閉塞感を打破するには、個々がそれぞれ違うことを認め合うしかない。個性の尊重である。そして、佐高・魚住たちは、辺見庸がいった、「顔を取り戻せ、言葉を取り戻せ、文体を取り戻せ、恥を取り戻せ」という言葉にしびれる。もちろん、個性のぶつかりあいは、シナジーが生まれるか、衝突や対立、協調、何が生まれるか分からない。けれど、そこで切磋琢磨するから、人間、成長、楽しさもあるし、理解も深まる。こうした不自然さ、閉塞感を捨て去りませんか、いい加減に?