在りし日の母とちらしずし
母が亡くなって今日で10日目です。昨年は胆管に石があったので石を取り除く手術と足腰が弱っていたので5カ月入院していました。でも、気力で頑張り、昨年の11月に退院してその後は元気に1人暮らしをして、週2回ディサービスに通っていました。妹が母の家のすぐ近くなので、ほとんど妹が母の世話をしていました。私も時間がある時は実家へ行っていました。 妹が3月17日に心筋梗塞になり危機一髪の状態で10日間の入院。その間、母はショートステーションで過ごす事になりました。妹も退院して、母も10日間のショートステーションの生活も終わり4月2日に家に帰る日に具合が悪くなりショートステーションから直接救急車で病院に運ばれました。妹は病み上がりで兄夫婦は出かけていていなかったので私が病院へ駆けつけました。凄く辛そうでした。 4月3日の夜3時頃電話があり「会わせたい人を呼んで下さい」との事で病院へ。 4月4日、娘と病院へ行った時は「もう、だめや」と言い、娘と私を見ていました。「また、来るからね」と言ったら笑ったように思えます。でも娘は看護士なので、その時、何かを感じたようです。 4月5日は、酸素の量も3まで下げてありましたが98の数値と血圧も正常、寝ているように思えました。血液検査の数値も、もともと正常値に近い人なので特に問題はないと思ったのですが、甲状腺の状態が悪いので口から薬を飲む事が出来ないので、点滴と利尿の薬の治療法。母のお腹をさすって、手を握りましたが、手はむくんでいました。でも楽そうに寝ているように思えたので、その日は少し安心して帰りました。その時はもう気力がなかったのかもしれません。 4月6日、訃報の知らせ。 救急車で運ばれて5日目に亡くなりました。ショートステーションへ行く前日、母にあった時は「明日は来てもいないからね」と元気だったのですが。でも顔や足が腫れていたので、気になっていました。ショートステーションへは会いに行ったらだめなのよ。と妹が言ったので、10日間会いに行きませんでした。10日間でこんなに体調が変わるものなのかなと思いますが 母は、いつも家に居た人なので、そういう環境はストレスになったのかもしれません。でも、顔も腫れていたので、たまたま,退所する時が体の不調と重なったのかもしれません。 救急車で運ばれた時も、亡くなる前も私は母に会っているので何か運命的なものを感じました。 母は気丈な人で、薬局の店番をしていました。気丈なのに、神経は繊細で、よく気のつく人でした。しっかりして見える人程、本当は、神経が細かくて、傷つきやすいのかもしれません。 私が子供の頃も学校から帰るといつも家にいました。でも、旅行も大好きだったので、近所の人達やグループでよく旅行も行っていました。他人に自分の作った料理をあげたり世話好きで、人に尽くすのが好きな人でした。去年の1月にも実家へ行った時、ちらしずしを作って持ち帰らせてくれました とにかく、作って人の物をあげるのが好きな人でした。一昨年はちらしずしと手作りの赤飯を持ち帰らせてくれました・毎年、お盆やお正月にちらしずしを作ってくれました。 お彼岸には、おはぎも作って持ち帰らせてくれました 一昨年に作ってくれたおはぎです。 料理上手でにしんずしやハンバーグ、オムレツ、おせち料理等色々な料理を母から教わりました。 私は特に親孝行は出来なかったけど母は私にいつも「ゆみはいい人と結婚して幸福やね」と言っていました。町から色々な風習のある田舎に嫁ぎ苦労がなかったと言えば嘘になります。でも、実家の母には、嫁ぎ先の愚痴や辛いこと等は言いませんでした。だから、母は私は幸福者だと最後まで思っていました。娘が嫁ぎ先で幸福に暮らしている、自分にあてはめてもそれが一番嬉しい事なので、それが私がしてあげられた唯一の親孝行でした。 いつも私達子供や孫を見守っていてくれた母。母の遺影は母は3月15日が誕生日なので、私は3月の初旬に毛糸の帽子とベストをプレゼントしました。 その毛糸の帽子を被って、そのころはでーサービスに通っていたのでにっこりと嬉しそうに写った母の顔です。 これからも天国で私達を見守ってくれる事でしょう。 ブログ友さん達からのたくさんのお悔やみのお言葉有難うございました。今日から少しずつブログ訪問させて頂きます。 今日はブログ村はお休みします。次回から再開したいと思っています。これからもマイペースですが続けていきたいと思っているので宜しくお願いいたします。