私は貝になりたい
12月中旬に鑑賞した映画。<私は貝になりたい>中居が主演という事もあってかTVでも頻繁にコマーシャルしていたし、戦争絡みの映画が好きな俺はとても惹かれた。しかも、このタイトルからして、先ず、どういった意味なのかと疑問を持つ。映画を観る前に、事前に公式サイトで若干のストーリーをチェックしたが、その内容からタイトルを結びつけるのであれば、劇末の展開を予測出来る人もいるのかもしれない。ただ、俺の考えは、TVでは、2枚目のアイドルとしてよりも、バラエティー本職の3枚目としての仕事を多くこなす中居の主演ということもあって、彼自身の明るさが余りにも視聴者に刷り込まれ過ぎているが為、映画の内容自体もシリアスには成りきれないのではと軽くみていた。ここまで書いただけでも、少し勘の回る人間なら映画のオチがわかってしまうかもしれないか。中居が演じるのは、高知県のしがない理髪師。決して特筆する才能は持ち合わせてはいない青年。大衆が入り込むには抜群の主人公だろう。映画の内容は観てもらうかウィキペディアをチェックもらうとして、ここからはネタバレ含む感想を。先ず、思うのは、戦争という悲劇という誰もが思うこと。愛する人と離れ、行きたくも無い軍隊に入らされ、そこで殺したくも無い敵国の軍人というだけの存在を殺せという命令を実行しなければならないという哀しみ。その捕虜殺害の咎により、戦争後にC級戦犯として逮捕、東京まで連行され、否応無く裁判にかけられる更なる悲劇。しかし、その捕虜だが、殺せと命じられたものの主人公自身の臆病さ(いや優しさとも言い換えられるか)により、実際は殺してはいなかった。簡単に言ってしまえば無実。『殺していない。』『軍隊での絶対的命令のもとでの行動。』当然、視聴者心理としても、何かの間違いだ。裁判の中でいずれ、解決し、故郷に帰る事も出来るだろうと考える。しかし、裁判はたどたどしい日本語で進められ、主人公もそのやりとりを甘く見ていたのか、裁判でのやり取りは非常に投げやりな態度にうつる。無実なのだから、何を言っても伝わるだろうという楽観視した態度。現実を分析解釈出来ていない理由は、当時の世相なのか、主人公の思考の問題なのか。いずれにせよ、判決は絞首刑。軍隊にさえいかなければ。上官とさえ仲良くしていれば。捕虜殺害執行の任に着かなければ。連行されなければ。裁判で心証を良くすれば。誰かの責任にすれば。それら、視聴者が描く無限の思いは主人公の頭にもよぎるのだろう。しかし、主人公の脳裏に浮かぶ最たる想いは家族への想いだろう。駆け落ち同然で結婚した2人。何も無いところから、2人とも理髪師としての技術をもっていたので店を持ち、子供も生まれ、さぁ2人目誕生という所での絞首刑だ。やるせない怒りと哀しみが溢れ出てとめどない。ここからは死刑執行を待つ、辛く悲しい獄中生活・・・・。とそれも初めのうちだけ。妻の必死の署名活動、米大統領向けの嘆願書、日米の講和条約締結間近と前向きな話が続き死刑執行も執り行われない日々。獄中生活でも、米兵との親交や、家族の訪問など明るさもあり、このまま無事解放されるのではないかという展開。だが、容赦なく死刑執行。ここで書いた遺書がタイトルの出番である。生まれ変わったら何になりたいか?私は貝になりたい。貝であれば、人の様に殺しあわず傷つけず、誰かを心配する事も無い。深く暗い海の底で何も感じず。この喪失感は予想もつかない。人生では誰しもが挫折を経験し、喪失感に苛まれる事も多いが、それは生から死へのベクトルに対し、これは死から無へのベクトルである。映画の最後には、夫の死を知らず、明日へと強く歩み続けようとする妻が主人公の帰りを待つシーンが・・・。観終わってからしばらく、動けない。すると、しばらくして聴こえて来る。届けたい 届けたい 届くはずのない声だとしても「ありがとう」「さよなら」誰の命もまた誰かを輝かすための光『花の匂い』(歌詞抜粋)自分勝手で思いやりに欠くと言われる男の目にすら涙が浮かぶ。既にスクリーンはスタッフロール・・・。日々、安穏と過ごしていた訳ではない主人公。その人生は国家・軍隊という時代の波に呑まれ、数年前には予期し得ない最期。上官の命令をきき良く対応していれば、あの命令も無かったかもしれないし、裁判でももっと必死に弁明に逃れていれば別の対応もあったかもしれない。小さな事が大きな事につながる。生と死は表裏一体でいつもそこにある。平和という蓑に隠れて、死に鈍感になってはいけないと、そう感じさせられた秀逸な映画だった。