裏関が原その6
お仕事終わってのどの調子が不良な熊です。そういいつつ、早寝したあと、全英オープンテニストーナメントとサッカーをみながら書きます^^;前回の日記の中でたびたびでてきた芦名氏は、源頼朝の奥州征伐に参加して会津に所領を与えられ後に黒川へ進出・本拠としていた。盛氏の代に分国を統一し、その所領は、陸奥南部から越後に及び、田村・二階堂・白河・畠山氏ら周辺大名を服属して一大勢力となり、1558年従5位下修理大夫に補任されている。盛氏の子盛興(もりおき)に伊達晴宗の娘を迎えて妻とした(伊達氏のところで後述しますが、佐竹義重の妻の姉にあたります、、つまり義重も伊達家から妻を娶ってます)。盛興は、わずか26歳で病死すると、二階堂氏の次男を嫡子とし盛隆となのらせ、盛興の妻を室とした。しかし、1584年、盛隆は、家臣に殺され、そのこ亀若丸も3歳で早世する。亀若丸の死亡直後に佐竹義重は、妻の姉にあたる亀若丸の母のために弔問している。このあと、芦名家は芦名四天王といわれる四家老が代行するが、佐竹・伊達派にわかれて激しく争った。この争いに、亀若丸の母と官位をりようして豊臣秀吉配下の石田三成の政治的介入をうけて1587年先述の義重の次男で白河城主となっていた義広を芦名盛隆の娘を娶り黒川城主・そして芦名氏の名跡を継ぎ芦名盛重となのり、これにより、佐竹義重は会津を完全に掌握、芦名・白河・二階堂・石川・岩城・相馬氏を服属するとともに、伊達政宗との対決が表面化することとなる。また、芦名盛重を黒川城に入れるとき、佐竹家の家臣もいれたが、これが芦名四天王との確執を生み、伊達政宗の介入をうける原因ともなる。以下つづく。