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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号26(その5) 背番号26の第5回目です 第4回で紹介した工藤一彦さんが12年着けたことで それまで投手とも野手とも傾向がはっきりしなかったこの「26」がほぼ投手の番号として定着していくことになるのよ 今回3名を紹介するけどそのうち2人は投手 後の一人は日本ハムからトレードで来た野手なんだけど シーズン途中のトレードで来て翌年は出番がほとんどなく引退しちゃってるわ この選手を覚えてる人ってかなりの少数派だとおもう 藤本修二 投手 愛媛県今治市出身で高校は県立今治西高校。2年時にエースとして夏の選手権に出場しベスト8まで勝ち進むが、金村義明を擁する報徳学園(この大会優勝)に敗れている。3年時は甲子園には出られなかったがプロのスカウトからは一定の評価がされていた。 1982(昭和57)年のドラフト会議で、南海ホークスから5巡目に指名されて入団している。 1年目の1983(昭和58)年はファームで1年を過ごしたが、2年目の1984(昭和59)年に一軍へ上がるといきなり31試合に登板、そのうち先発が20試合とローテーション投手に抜擢され、規定投球回をクリアする162回を投げて7勝6敗。防御率は4.72だったが高卒2年目で早くも頭角を現した。 1985(昭和60)年には37試合で31試合に先発。防御率が5.41と前年より悪くなってしまって8勝17敗と大きく負け越すが、196回1/3を投げてエース級の働きをしている。 1986(昭和61)年は31試合のうち21試合が先発で10勝12敗、初めて二けた勝利を記録し防御率も3.78と安定感も増してきた。 1987(昭和62)年がキャリアハイで、31試合中29試合に先発し、15勝8敗、217回を投げて防御率3.15と絶頂だった。 1988(昭和63)年、10勝15敗と負け越すも3年連続二けた勝利となりローテーションを守ったが、実はこの年にはシーズン終了後に南海はダイエーへの球団譲渡が予定されており、福岡ドームの建設が進められるなかでの落ち着かない1年だった。 1989(平成元)年、球団名は福岡ダイエーホークスとなり、選手たちも福岡へ移転するが、ここから藤本の様子がおかしくなっていく。この年は右大腿内転筋を痛め、わずか4試合の登板しかできず0勝1敗に終わっている。 1990(平成2)年になると、フィジカルな面では故障の影響が長引いて調子が上がらず、メンタル面では新監督の田淵幸一の要求や指導と合わず、精神的に不安定になっていったという。成績も1勝7敗、防御率は9.44と惨憺たる結果に終わり、オフに5対5のトレードでタイガースへ移籍することになり、背番号「26」を継承した。 1991(平成3)年、移籍したタイガースでは30試合に起用され、シーズン開幕当初は4試合に先発もしたが結局0勝5敗、防御率6.94で使い物にならず、1992(平成4)は登板のないままオフには戦力外となった。 タイガースを退団した藤本は西武ライオンズの入団テストを受け、採用されている。 ライオンズ1年目の1993(平成5)年のシーズンは27試合登板して防御率2.63と中継ぎとして成果を上げた。 しかし1994(平成6)年には限界となり4試合のみ、翌1995(平成7)年には試合で投げることなく引退している。 通算成績は240試合53勝71敗6セーブ、1091回1/3を投げて588奪三振、防御率4.63だった。 引退後は1996(平成8)年からタイガースに打撃投手として採用され復帰。2002(平成14)年からフロント入りし、一軍や二軍の用具担当などを経て虎風荘寮長となった。 竹内昌也(たけうちよしや) 投手 秋田県由利郡象潟町(現:にかほ市)出身。高校は県立本荘高校で2年時にエースとして夏の選手権に出場しているが1回戦で完封負け。3年時には甲子園と縁がなく、卒業後は社会人野球のNTT東北へ進む。 1992(平成4)年の都市対抗予選では7回参考記録ながらノーヒットノーランを記録するなど、社会人通算17勝1敗の成績を残し、同年のドラフト会議でタイガースから2巡目で指名されて入団している。背番号は戦力外となって退団した藤本のつけていた「26」を受け継いだ。 入団1年目の1993(平成5)年は8試合に投げているが、勝敗には関係なく一軍を経験しただけに終わる。 2年目の1994(平成6)年は12試合で6試合の先発を経験。1勝3敗ながら防御率3.41とまずます安定していた。 1995(平成7)年がキャリアハイで39試合に登板、そのうち19試合に先発している。成績も10勝9敗1セーブ、130回を投げ防御率4.02と生涯唯一の二けた勝利だった。 当時のタイガースは1992(平成4)年こそ優勝争いをして2位になったものの、竹内が入団した1993年から暗黒時代に戻り、援護のないなかで投手陣は苦しいピッチングを強いられている。竹内も例外ではなかった。 1996(平成8)年から1999(平成11)年まで4年間の成績は、3勝4敗、8勝6敗、3勝4敗、3勝2敗と芳しくない。野村監督になると中継ぎに配置され先発の機会はほとんどなくなっている。 2000(平成12)年は登板機会がないままシーズン中に日本ハムファイターズの根本隆輝との交換トレードで放出されてしまう。 日本ハムでは7試合に使われただけで0勝1敗と結果が残せず、2001(平成13)年のシーズンは出番がないままオフに引退している。 通算成績は202試合28勝29敗1セーブ、521回2/3を投げて263奪三振、防御率4.05である。 下半身のしっかりした投手だったが、目立つほどの球速はなく、変化球の配球で打たせて取るタイプ。どちらかというと中継ぎのほうが多く、同点やビハインドでのロングリリーフとして試合を壊さないところに持ち味を出していた。ただ打線の援護があれば先発でももう少し勝てていただろう。キャリアの大半を暗黒時代に飲み込まれたのが不運だった。 引退後は中日ドラゴンズで、2002(平成14)年から2010(平成22)年までバッティング投手を務め、以降は同球団でスコアラーに転じた。 根本隆輝(ねもとりゅうき) 内野手 徳島県小松島市出身。県立小松島西高校3年時に春の選抜大会で甲子園を経験しているが1回戦で学法石川に完封負けだった。 1991(平成3)年のドラフト会議では日本ハムファイターズから6位で指名されて入団した。 1年目の1992(平成4)年から1994(平成6)年まで3年間はずっとファーム暮らしが続き、4年目の1995(平成7)年に初めて一軍登録されたが、出場は4試合で7打数ノーヒットに終わっている。 以後も1996(平成8)年が10試合、1997(平成9)年が2試合、1998(平成10)年が12試合と伸び悩みは続く。 プロ入り8年目となった1999(平成11)年、71試合に出場して164打数47安打20打点3本塁打、打率.287を記録してようやく一軍定着かと思わせたが、翌2000年のシーズン途中に竹内との交換トレードでタイガースに移籍することになった。背番号は竹内の「26」をそのまま継承している。 タイガースに移ってからは43試合に出ており81打数23安打2打点、打率.284の数字を残している。シーズンオフには背番号を「37」に変えているので。「26」は1年しか着けなかったことになる。 タイガースでの2年目の2001(平成13)年、出場は14試合に減ってしまい、21打数4安打2打点で打率も.190となり戦力外でもいい数字だった。 2002(平成14)年には星野仙一監督が就任すると全く一軍戦力とみなされず、ファーム暮らしのままオフに引退している。 通算では165試合322打数80安打27打点4本塁打3盗塁46三振で、打率.244という数字しか残せなかった。 まとめ ホークス時代の藤本さんは早くから一軍で投げてるけど故障してから完全にダメになったみたい しかも田淵監督とうまくいかずノイローゼみたいだったらしいのよ その状態でタイガースに来られてもやっぱダメだったわけね 引退してからは先代が安芸キャンプに行くとバッティングケージの移動やトンボ掛けなどの雑用を一生懸命やってる姿を何度も見たって言ってるわ 竹内さんはチームの暗黒時代にかぶったのが不運 もう少し先発で勝ってて不思議じゃないって先代は言うのよ 速球派ではなかったけど変化球はカーブ系もシュート系もキレがあったらしいよ 根本さんは「ホントにいたの?」って感じかな 皆さん記憶にありますか? 日本ハムでも伸び悩んでるよね でもプロ入りしてくる選手の半分はこれが普通じゃないのかな? まったく一軍経験しないで辞めてく選手も結構いるし 一軍でレギュラークラスになるのは簡単じゃないのよね
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