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2012.03.20
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カテゴリ:苦難の20世紀史

 近影6

トルニオの戦い後、フィンランドとドイツの戦争は誰が見ても本格的なものとなりました。アメリカとイギリスはこの状況に満足しましたが、ソ連の反応は異なりました。

連合国管理委員会のツダノフ大将(ソ連)は、フィンランド軍のロヴァニエミ市攻略後、マンネルヘイム大統領と会談して、ロヴァニエミ奪還の祝辞を述べる一方、「まだ(フィンランドは)ドイツとの戦いに積極的ではない」と強く批判しています。

ソ連軍は、ラップランドのドイツ第20山岳軍団がドイツ本国の防衛に転用される事を恐れていました。第20山岳軍団は、ほとんどが現役兵と志願兵で構成されており、予備役出身の兵士はほとんどいません。つまり兵士として最も体力と技量が充実している部隊だったのです。

20万を超す彼らが無事にドイツ本国に戻り防衛に投入されれば、疲弊して消耗したドイツ軍は大幅な戦力増強が出来ます。ドイツ本国へ侵攻を開始しようとしているソ連にとって、非常に不味かったのです。

加えてもう一つ、ソ連には別の理由もありました。

フィンランドから割譲させることになっていたペッツァモ地方でも、この時期ソ連軍とドイツ軍の戦闘が始まっていました。

ペッツァモ地方は放っておいても、戦争が終わればソ連のものになる地域でしたが、世界最強の赤軍を自認するソ連としては、力ずくでドイツ軍を叩き潰して手に入れたという実績がほしかったのです。

ラップランドからは素直に出て行こうとしていたいドイツ軍でしたが、ソ連のものになるペッツァモ地方を素直に明け渡す気はありませんでした。

むしろ戦力を増強したドイツ軍は激しく反撃して、ソ連軍の攻撃は数度にわたって失敗、敗退していました。

ツダノフの批判は、ペッツァモ地方の戦いがソ連にとって上手くいかないのは、フィンランドがドイツと本気で戦っていないからだという、八つ当たりも含まれていたのです。もちろんフィンランドからすれば、言い掛かり、嫌がらせでした。

激しい戦闘が続いた10月でしたが、状況は11月になると大きく変化しました。フィンランド軍の攻勢が大きく弱まったのです。

その理由はソ連との休戦条約の条項の一つ、「1944年11月1日までに、フィンランド軍部隊の戦時動員体制を解除する」が原因でした。

マンネルヘイム大統領も総司令官ハインリッヒス大将も、ドイツ軍と戦っているラップランドで戦っている部隊は例外扱いされると考えていましたが、ソ連はそれを認めませんでした。

このため約6万名のラップランド方面軍は、2万名前後まで削減されてしまったのです(交渉の結果、ラップランドで戦っている戦車部隊と空軍部隊のみ、動員解除を延期することが認められました)。ただでさえ、20万を超すドイツ軍との戦闘に兵力も装備も劣り、苦戦を強いられていたフィンランド軍です。この大幅な兵力削減でまともな戦闘が出来なくなってしまったのです。

ソ連の無茶な要求の理由は、小国とはいえ手強いフィンランド軍を一刻も早く解体、無力化してしまいたかったのです。

この時期ソ連軍はようやくドイツ本国の入り口まで到達していました。ソ連軍の補給線を脅かす位置にあるフィンランドが戦時体制のままでいることは、不安で仕方なかったのです。

もちろん自分たちの要求で、フィンランド軍の攻撃力が低下したのは百も承知ですが、ソ連はこの後もドイツ軍が撤退完了するまでの間、「フィンランドはまじめに戦っていない」という批判を続け、マンネルヘイム大統領とハインリッヒス大将は謝罪と抗弁を繰り返し続けることになります。

フィンランド軍の攻勢が弱まる中、ドイツ軍は順調にノルウェーに脱出していきました。大規模な戦闘を行う力を失ったフィンランド軍は、撤退するドイツ軍の後を遅れてついていくだけになってしまったのです(ドイツ軍が橋や道路を破壊していったため、その修復に苦労していたのも原因です)

殿を努めていたドイツ軍第7山岳師団が、任務を終えて国境の街キルビスヤルヴィに作った陣地を放棄して、ノルウェー領に撤退したのが1945年1月19日、追撃してきたフィンランド軍が国境線を確保し、フィンランド領からのドイツ軍完全駆逐を宣言したのが翌日になります。

こうしてフィンランドとドイツ双方の望まぬラップランド戦争は終わりました。

ラップランド戦争で、フィンランド軍は戦死者774名、行方不明者262名、負傷者2904名もの犠牲を出しました。対するドイツ軍も死傷者約2500名、捕虜3000名もの犠牲を出しました。

人的犠牲もさることながら、ヒトラーの焦土命令によって、「サンタクロースの故郷」ラップランドは至る所で廃墟同然となり、他には特にトナカイの生息数は戦前の半分以下に激減しました。

トナカイの受難は、主に地雷による犠牲でした。ドイツ軍は戦争が本格的になったあとでも、規模の大きい地雷原には、看板を立てて警告文を残していましたが、人の文字が読めないトナカイたちには避ける術はなかったのです。また人間の方も、規模の小さい地雷原は警告はなかったため、戦後も200名以上の犠牲者が出ています。

さらにラップランドの復興には、10年もの年月と3億ドルもの復興資金を必要とすることになります。


ここからの話は余談、もしくは蛇足の話になります。

戦争は終わりましたが、フィンランド領内には、逃げ遅れたドイツ兵が多数さ迷っていました。

彼らは味方からはぐれ、厳寒のラップランドの原野で苦しい逃避行を続けていました。苦難の末、国境の街キルビスヤルヴィにたどり着いた彼らが見たのは、国境に翻るフィンランド国旗とフィンランド軍の国境警備隊の姿でした。

ドイツ兵の多くは長い脱出行で体力を使い果たし、凍傷や栄養失調で戦える状態ではありませんでした。そのためフィンランド軍に降伏を申し出ました。

しかしフィンランド側の返答は予想外のものでした。

「我が国には、すでに敵兵(ドイツ兵)は存在しない。友人として歓迎する」と、ドイツ兵たちを捕虜としては遇せず、兵舎で食事と暖が提供されたと言われていま(もっともフィンランドの食糧事情はよくなかったので、温かいスープと北欧特有の堅パンぐらいしか無かったようですが)

こうして一息ついたドイツ兵たちは、捕虜になって戦争から離脱することも出来ましたが、多くの将兵は命令どおりノルウェーへ脱出して戦い続ける道を選びました(この時捕虜になったもののほとんどは、怪我や病気で命の危険にある重傷者達だけでした)

キルビスヤルヴィでフィンランド兵に助けられたドイツ兵たちは、体力の回復した者から順次、国境を越えていきました。

最後のドイツ兵の一団が、見送るフィンランド兵たちに礼儀正しく敬礼をしながら、フィンランド・ノルウェー国境を越えていったのは1945年4月25日、それはベルリンの地下壕でアドルフ・ヒトラー総統が自殺する5日前、ドイツ第三帝国が連合国に無条件降伏する13日前のことでした。

こうしてフィンランドのみならず、欧州全体での戦火は終わりました。

フィンランドを巡る戦争・戦闘の話はこれで本当に終わりです。次からは政治的なお話が中心になっていくと思います。

次にフィンランドのことを書く時は、戦後フィンランド最大の苦難の時代、マンネルヘイム大統領時代を見ていきたいと思います。






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Last updated  2014.05.16 22:28:50
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