カテゴリ:Nostalgia Sketch
薄暗い午後の図書室には、雨の音だけが小さく流れていた。
校庭に面した窓からいつも聞こえる歓声も今日はなく、 耳を澄ましても、聞こえてくるのは雨音と本を捲る音だけ。 気まぐれで手に取った俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』を読んでいると、ある歌に目がとまる。 それはページの最初にちょっと大きな活字で飾られた歌とは違って、 活字の列の中に紛れ込んでいて流し読みだと見逃してしまいかねない歌なのだけど、 静かに流れる雨の音に共鳴して、僕の目を離そうとしない。 寺町通りに繋がる路地の先、女子大の裏あたりになる、 一軒家を部屋毎に貸し出すという形の下宿に住んでいたのは、大学三四年の二年の間だった。 元は四畳半の部屋二つの間の壁を取り払って一つにしたこの部屋は、 流しこそ付いていたけれどコンロは各階の廊下に一つずつで、 トイレ共同風呂なしという時代から取り残されたようなところだったけれど、 京都という町に馴染んだ風情と驚くほど安い家賃が魅力だった。 そしてその部屋の持つ雰囲気を彼女も気に入っていたのだろう。 何かと僕の部屋で過ごしたがっていたし、ゼミで遅く帰ってきたときなんか、 戸を開けると彼女が僕のベッドに寝そべって本を読んでいるのが見えたりもした。 古い下宿で過ごす僕たちの時間は、静かにゆっくりと流れていて、 まるで古い歌に出てきそうな日々を送っていた。 下宿には風呂がなかったので、二人で銭湯に行くことも多かった。 まさに気分は「神田川」。 歩いて五分ほどのところにある銭湯は戦前からありそうな佇まいで、 お客も何代にもわたって通っていそうな家族連れが多かった。 そんな中で毎日のように通う学生は珍しかったのだろう。 番台の横に立つおじいさんは、変わらぬ笑顔で僕たちを迎えてくれては 何かと話しかけてくれていて、閉店間際に行ったときなんかは コーヒー牛乳をおごってくれたりもした。 あれはちょうど今頃、今にも泣き出しそうな雲が空を覆っていて、 天気予報も梅雨の戻りを告げていた日曜の夕暮れだった。 二人で銭湯に出かけようとしたときには一時間ぐらいなら持ちそうだと思っていたのに、 僕が先に上がって脱衣所で一服していると外から雨の音が聞こえだした。 耳を澄ますと雨音は時間とともに強くなり、磨りガラス越しの外には 闇が雨音に合わせるように急速に濃くなっていった。 そうしている内に番台越しに彼女が下足置き場に行くのが見え、僕も外に出た。 サンダルを履いて空を見ると、雨はなかなか止みそうにもなく、 かといって街灯に浮かぶ雨の勢いを見ていると、 この雨の中を下宿まで駆けていくのも少し躊躇われた。 二人で顔を見合わせ、自分たちの不注意を悔やみながら走り出そうとしたとき、 後ろから声をかけられた。 「よかったら、持ってくかい?」 振りかえると銭湯の主人が、いつもの好々爺然とした笑顔で古ぼけた赤い傘を差しだしていた。 聞けば、置き忘れたままの傘を整理して、雨の時には顔馴染みの人に貸しているらしい。 僕たちは何度もお礼を言って、その傘を借りた。 赤い傘は小さくて、二人で肩をくっつけ合っても反対の肩が外に出てしまう。 仕方なく、できるだけ傘が彼女にかかるようにしながら、雨の中を歩き出した。 人通りの絶えた道を、二人で一つの傘の中で歩く。 その時、えも言えぬ香りが鼻の中に流れ込んできた。 それは僕の肩先から漂ってくる。 彼女の髪の香りだった。 その香りに僕は言葉を失い、そんな僕を彼女は不思議そうに見上げた。 雨は世界を小さく切り分け、その世界の中で時間は止まる。 あの傘の中、僕たちは小さな世界を作り、その世界を彼女の髪の香りが包んでいた。 薄暗い図書室に、雨の音が流れる。 あの歌と雨の音が共鳴し合い生まれた音の先には、あの傘の中の小さな世界が浮かんでいた。 シャンプーの香りに満ちる傘の中 つぼみとはもしやこのようなもの (早川志織) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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