ことばと貧富
昨年の終わり、ある業界の会報の原稿依頼があった。担当者には悪いが「たいして読む人いないだろうな~」と思って、僕の勧める5冊の本の紹介を書いた。すると先日、初対面の人と自己紹介していると「あ~、あれに書いてましたよね!」と、その会報を挙げる人たちが5人はいた。中には、それを参考にして自分はその2号後に書いたとか。。。おいおい、あれが参考でいいんかい!と、ちょっと焦った。適当に書いたわけではないんだけど。。。僕は、誰でも文章は書けると思う。どこまで開放するかの個人差は大きくあると思うけど。また、文章を書くことは、裕福でない人の人生の一発逆転を秘めている。紙と鉛筆、そして消しゴム。200円もかからない初期投資だ。今日、友人から文章に関して興味深い話を聞いた。その話だと、幼児期に自然に接していない子どもたちは語彙が少ない傾向があるそうだ。だから作文も「~だ」と事実を並べがちで、自分の心の動きの表現が少ないのだと。自然と幼児の関係、周りの友人を頭に浮かべると、かなり納得である。擬音語、擬態語満載だ!たまにぶっとびすぎててわからんのもあるけどね。同じことはアートにも言えると思う。自然、アートをじっくり見て、そして自分の手を動かしてなにかつくってみる。土ででもいい。そんな中で、ものだけでなく、ことばも生まれて蓄積されるのだろう。それに貧富の差はたいして影響しないことは画家の経歴を見てもわかる。それを家の周りでやる環境は日本中かなり少ない、はてどうしよう。ライブドアの元社長・堀江氏は、5歳で百科事典を読破したと言う。そして会社を急成長させ、33歳で逮捕。彼は幼少期に寂しかったのかなと思うんだ。昨年の全盛期から、ことばの端々に温かみがないもの。彼は絶対に時代の先頭には立てない人だと思っていた。お金は必要、そして夢も必要、そこにモラルはもっと必要。最近のテレビでのいろんな人が証人喚問で言うあきらかなウソもそうだけど、今の世の中、大人が放つ心からのことばってとても少ないと思う。幼児の含蓄のあることばをもっと聞いてみたい。ちょっと目先の損をしてもいいからさ、80年で取り戻せたらいいなと思う。所詮、そんだけしかいられないんだから。というか、損ってなんだ。それぞれのビジョンによって、損の概念は大きく変化するそれにしても、この文章、ボキャブラリーがないというか、書き急いているのを自分で感じます。ちょっと心が貧しいのかな。