元近鉄中村良二さんの記事
元近鉄の中村良二さんと聞いてもピンと来ない方も多いかもしれません。中村良二 Wikipedia天理出身は何となく覚えてましたが、阿波野と同期入団だったのですねそして、背番号28も何となく覚えてましたが、阿部ちゃんも近鉄時代使っていた鉄人28号の応援歌 プロ野球応援歌だったのですね。さて、何故中村良二選手のことを取り上げたかと言うと以下の記事を見つけたからです。2人の名将の背中追う 理想は「佐々木氏+仰木氏」 福岡市出身・天理大中村監督 西日本新聞元近鉄内野手で、関西学生野球の阪神リーグ1部天理大(奈良)を指揮する中村良二監督(41)=福岡市出身=が奮闘している。プロ・アマ規定が緩和された2005年以後、関西の大学1部リーグでは初のプロ経験者監督だ。2部だった昨夏に就任し、今春のリーグ戦で1部に復帰。現在行われている秋のリーグでも5位以上を確定、残留を決めるなど、手腕を発揮している。■1部残留決めた ステージは違っても、野球への情熱はみじんも変わらない。監督就任2年目、初めて1部で迎えた秋のリーグ戦。10、12日の帝塚山大戦で2連勝して5位以上を確定させ、1部残留を決めた。「ほっとしています」。一区切りをつけた中村監督が安堵(あんど)の表情を見せた。 監督就任は当時2部だった昨年8月。それまで少年野球のコーチを務めていたが、熱心な指導ぶりを聞いた大学関係者からの誘いで決心した。 プロでは苦しんだ。近鉄時代の1994、95年にウエスタン・リーグで2年連続して2冠王を獲得したものの、1軍では11年間で計41試合の出場にとどまり打率・098。「上でやっていく実力がなかった」。移籍した阪神でも活躍できず、97年オフに戦力外通告を受けた。■プロ時代に出会い 鳴かず飛ばずに終わったプロでの11年間。それでも指導者としての自分を支える“師”に出会えた。一人は元近鉄監督の佐々木恭介氏。当時打撃コーチだった佐々木氏は練習にいつまでもつきあった。「僕が納得するまで練習をやめなかった。やらされる練習ではなく自らがやる。選手の自主性を引き出す方だった」。天理大での指導方針もできる限り選手の判断に任せ、相談にくれば話にとことん乗るスタイル。これは佐々木氏の影響を受けたものだ。 もう一人は近鉄、オリックスで指揮を執った仰木彬元監督。パ・リーグ制覇した89年。初めて1軍に上がり、代打などチャンスで起用された。「右投手に右打者を当てる。非常識にみえるけど相性の良さを熟知した上での判断。仰木マジックも常に裏付けのあるデータ野球だった。加えて、選手をやる気にさせるのがうまい“知と情”の人でした」。この2人をミックスさせたのが理想の監督像だという。 順調な指導者人生を歩む中村監督の目標は二つ。「チームの日本一、そして選手が野球を通じて人間的に成長してくれること。それが僕の願い」。プロで泣き続けた糧を胸に、学生野球の世界で花を咲かせる。僕が中村良二さんの名前を覚えていたのは仰木さん初の著書「燃えて勝つ」の中で以下取り上げていたのを覚えていたからです。 201ページから今でも脳裏を離れない采配の成功例・失敗例として、1989年の近鉄の試合の中で2試合挙げてます。失敗例として5月26日の1.5差で首位を行くオリックス戦との三連戦の初戦で4対1と九回表までリードしながら、継投の乱れと内野守備の乱れで本西にサヨナラ打を打たれた試合として挙げている一方、嬉しい記憶として、リーグ優勝を決めたダイエー戦は筆頭ではあるが、印象深い試合として4月19日の西武戦を挙げてます。 1点を追って九回二死無走者。ここからリベラが右中間二塁打、鈴木が敬遠の四球で1,2塁となった。ここで吉田に代えて中村を打席に送った。中村は投手が右腕の郭なので出番はないと考えていたらしいが、私は彼が天理高時代に甲子園で大活躍しているので、この舞台でも力を出してくれると望みをつないでいた。カウント2-0と追い込まれながら左中間へ逆転の二塁打を放ったのだ。 ピタリと的中した代打策だけが嬉しかったのではない。前日は渡辺久に1-0とシャットアウトされていたので、ウチとしては序盤の浮沈をかけた試合だった。その意味で大きい逆転でもあった。これを機に4連勝した。ひとつの策がいい方にも悪い方にも大きな作用をするという見本のような2つの試合ではあった。中村さんにもこの時の試合の印象は強かったでしょうね。打率からすると貴重なヒットだったとも思いますし。+++当ブログは9月25日に5周年を迎えました。今年の観戦結果はコチラ+++応援いただける場合はクリックしてください。