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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Aug 20, 2006
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

やるやるって言っておきながら

なかなか進まなかった古代史。

いよいよ再開ッス。

それにしてもロシア、

どうしてくれようか。

日本海側は敵だらけですなぁ・・・・

 

さて倭の五王。

いわゆる讃・珍・済・興・武という中国名で

宋(南朝系中国)に臣下の礼をとった倭国の王。

しかしこの五王については、

日本書紀などには一切書かれていないんですね。

にもかかわらず、通説では、

どの天皇に当てはめようか、

という議論に終始してるんです。

要するに、これまでの通説の暗黙の了解は

「倭国の中心権力は近畿天皇家以外は

 あり得ない!」

すべてがここからの発想になってるんです。

じゃーこの倭の五王ってのは何者だったんでしょうか。

通説のように「仁徳」や「雄略」のような

近畿天皇家だったんでしょうか?

はっきり言いますと、それは絶対にあり得ない!

いろんな角度から証明できると思いますが、

今回は「倭王の称号」という切り口から

証明してみますぞ♪

 

宋書倭国伝を読んでみると、

この五人の王は、

常に中国から称号をもらおうとしてたんです。

「使持節都督 倭・新羅・任那・・・

 六国諸軍事 安東将軍 倭国王」

各王によって多少の違いはあるけど、

すべてが、「使持節都督」から始まる

称号を自称し、そして任命されてるんです。

要するに倭の五王は、

中国の役職である「都督」に任命され、

そして「都督」を名乗ったと考えられるわけです。

内閣のいる所を「内閣府」と言うように、

「都督」のいる所属官庁は「都督府」という。

ではその「都督府」、

現在にその痕跡を残しているのか?

これがあるんです。

まず文献的には、日本書紀の天智紀に1つ。

白村江の戦いの後、天智6年(667年)の条に、

戦後処理として、中国の役人を

筑紫都督府に送る。

と、明確に書いてあるんです。

この1文について、

岩波の日本古典文学大系には

一種不可思議な注釈を載せていて、

これもおもしろいんですが、

今回は省きます。

要するに、日本書紀に明確に

「筑紫都督府」という名前が載っていること、

これが重要です。

都督府が筑紫にあった!

そのことを証言しているんですから。

では次に、考古学的にそれが証明できるのか?

これもね、できるんです。

行ったことのある人も多いでしょう。

そう、大宰府です。

ここは「都府樓址」と呼ばれており、

現地にも「都督府古址」という

石碑も立ってるんです。

そしてこの「都督」については、

近畿には一切その痕跡はないんです。

このことだけをみても、

「倭の五王」の所在地は近畿にあらず!

そしてそれは筑紫の地を指してるんです。

この大宰府、万葉集では

「遠のミカド」と歌われていることで有名だけど、

もっとおもしろいことがあるんです。

通説ではとても考えられないような

字地名が残ってるんです。

次回は、その字地名から

さらに九州倭国の証明をしていきます。

 

さて、これから子供達のソフトの練習試合に行って、

夜は地元の幼馴染と一杯やってきます。

4人で呑むんだけど、

考えてみたら、16歳の時彼らとバンドを組んでたんですね。

その時やってた曲はね、

キャロル・トランザム・外道・頭脳警察なんかのコピー♪

いまだにライブのテープがあるけど、

すんげーヘタくそ・・・・

まー30年前のいい思い出だけどね。

今日はそんな話に花が咲くかも♪

そんじゃーそろそろ行ってきまーす。

SEE YOU NEXT TIME

 






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Last updated  Aug 20, 2006 12:50:29 PM
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