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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート
いやーマジメに働いてると、 いいことありますなぁ・・・シミジミ 建設会社のコンサルタントを生業にしてる素盞嗚君。 大きい仕事のコンサルをいただきました。 アタシたちの使命はクライアントを 必ず成功させることにあります。 だから、期限を切って、 何をもって成功とするかを確認するんです。 大変だけどやりがいもある♪ ちゅーことで、これからメッチャ忙しくなります。 でもこいつだけは完結したいんです。 「素盞嗚の古代通史」 いつの日か、 学校の教科書がこんな風になったら・・・ そんな思いで書きます。
対外的に「倭国」と認識されていた中心地は、 701年までは九州北部(大宰府)にあった。 これはもう確信の域に達しました。 さて、では「磐井」は天子を名乗った後、 わが国はどうなったのか? 一番大きかった問題は、西暦589年の南朝の滅亡です。 時の天子「タリシヒコ」は、 7世紀に入って、ついに対外的にも「天子」を宣言しました。 いわゆる宿敵、北朝系の「隋朝」に挑戦状を送ったんです。 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、 恙無きや」と。 この瞬間から、倭国と隋とは冷戦状態になるわけです。 一方、このことを「大和」はどう受け取ったか? 時の「大王」は「推古」。 そしてその補佐役(摂政)は厩戸皇子だ。 パートナーは蘇我氏・・・・ この蘇我氏が問題なんだけど、 素盞嗚氏は、この蘇我氏は、 実は九州倭国から派遣された氏族だと思っています。 だから「タリシヒコ」の対隋外交の姿勢に対しても この時点では賛同していたと思うんです。 しかーし! 大和を倭国系蘇我氏に牛耳られることを 快く思っていなかった物がいた。 中大兄皇子(後の天智天皇)だ。 大国「隋」に楯突いて、いいことないぞ! そしてさらに思ったのは、 この挑戦的外交を利用して、 この「大和」から「九州倭国」色を追放しよう!と・・・・ 天智はその駆逐するタイミングを 虎視眈々と狙っていた。 そしてそのチャンスがついに来た! 時は西暦645年!
おっと、明日は4時半起きや。 名古屋で終日缶詰研修ッス・・・・ 現金報酬♪ うううう、 名古屋といえば、パチパチ・・・・
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