511722 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

素盞嗚

素盞嗚

Category

Archives

Oct , 2024
Sep , 2024
Aug , 2024
Jul , 2024
Jun , 2024

Keyword Search

▼キーワード検索

Sep 25, 2006
XML
テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート

知ってました?

一昨日、嬬恋で拓郎と

かぐや姫が8時間のライブをやってたんですね。

実は31年前、素盞嗚少年15歳、

友達と見に行ったんです♪

入場する時、係りのにーちゃんに、

「未成年者だけじゃ入れませんよぉ」

ゲッ・・・・

さーどうする!

ここまで来て、帰るわけにもいかん。

ふと振り返ると、

大学生らしきおねーさまがお二人・・・・

 

「えーと、今日はおねーちゃんと一緒に来たんです、

 ねー♪」

 

「え?あ・・・・、は、はい・・・・」

 

ちゅーことで入場に成功しました。

 

「あんたたち、なかなかやるじゃない♪」

おねーさまにも褒められて、

ずーと朝までなかよく過ごしました。

素敵な人たちだったなぁ・・・・

 

 

ちゅーことで、7世紀っす。

富本銭から始まった九州倭国の証明、

いよいよ7世紀に入ったんだけど、

あの「乙巳の変」で暗殺された蘇我入鹿とは

何者だったのか?

以前にもすこし書いたことあるけど、

「蘇我氏は九州倭国の人間である!

これが素盞嗚氏の仮説です。

まずはここから証明してみよう。

その1:

まずは「乙巳の変」の「変」。

「変」とはクーデターのことなんですが、

日本書紀に書かれたこの記事を読むと、

確かにクーデターという感じがします。

しかし、クーデターとは、

「下位者」が「上位者」を倒すこと。

要するに、中大兄皇子が下位者で、

蘇我入鹿が上位者ってことです。

中大兄皇子は時の大王(天皇)、皇極のセガレで、

「大兄皇子」の称号は「時期天皇候補」って意味なんです。

入鹿はその上位者だったということですね。

時期天皇候補より上位者っていうと、

一般論から言うと、もう天皇しかいないですよね。

そんなところから

蘇我氏天皇説ってーのもあるんだけど、

素盞嗚氏は違うと思うんです。

九州倭国説の立場から考えると、

蘇我氏は九州倭国から派遣された、

大和の統治者だった。

その2:

日本書紀を読むと、ちょっと不思議な記事があるんです。

蘇我入鹿が大臣になった時に、

その弟を「物部大臣」と呼んだって書いてあるんです。

蘇我と物部は、仏教をめぐって戦争までした

犬猿の仲だったんじゃないか・・・・

で、物部氏の家伝「先代旧事本紀」をみると、

物部系のソガ氏ってーのがいたらしい・・・・

しかもその物部系ソガ氏の出身は

どうも九州北部みたいなんですね。

 

その3:

蘇我氏が日本書紀に登場してくるのは

6世紀中ごろなんですが、

これはどういう時代だったかっていうと、

あの「筑紫の君、磐井」と継体天皇が戦った

「磐井の乱」(素盞嗚的には『継体の乱』)

のあとなんですね。

これも以前書いたんだけど、

磐井は継体にだまし討ちにあって殺されるんだけど、

その後は形勢逆転して、継体は大和に押し戻されるです。

九州倭国は倭国王を失ったけど、

後継者の葛子が立て直して、

大和が二度と反乱を起こさないように、

監視の意味も含めて、蘇我稲目を大和に派遣した。

鎌倉時代に京都が反乱を起こさないようと、

六波羅探題を設置したようなものだったんじゃないか・・・

そして、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代に渡って、

大王家(天皇家)を抑えて、

大和を統治していた・・・・

素盞嗚氏はそう考えています。

その4:

郡評問題。

日本書紀では、7世紀の行政単位は

「郡」である。

そして「郡」を統治するのは「郡司」である。

そう徹底して書かれてるんですが、

昭和20年代に井上光貞氏が

「それはおかしい。

 行政単位は『評』だった!

 そしてその統治者は『評督』である」

そう主張したんです。

井上氏の師匠である坂本太郎氏は

それに猛反発!

「日本書紀に『郡』とあるし、『評』とは一言も書かれていない!」 

学界を二分する大論争になったんだけど、

結局は井上氏の勝ち。

地中から出土したさまざまな「木簡」から、

699年までは「評」だったことが明らかになったんです。

要するに7世紀の間、

大和の行政単位は「評」だった。

そしてその統治者を「評督」と言った。

でも日本書紀は故意にそれを隠し、

「郡」であり「郡司」だったと書いてるんです。

なぜか?

「評」という単位は大和が発令したものではなかったからだ。

行政単位の発令者は、当然「時の最高権力者」だ。

要するに大和より上位の権力者がいたからに他ならない。

では、その最高権力者とは誰か?

もう九州倭国王しかないでしょ♪

そして、大和の「評督」、

またはその上位者として

大和に君臨していたのが蘇我氏だった・・・・・

 

 

うーん、カンペキ♪

次回は、蘇我入鹿暗殺後のことを書きます。

前にすこし予告した石原莞爾と鎌足をダブらせて

考えていきますゾ!

 

だいぶ「リキ」が入ってしまった・・・・

さーてお仕事じゃ!

SEE YOU NEXT TIME

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Sep 25, 2006 10:24:48 AM
コメント(24) | コメントを書く
[古代史レポート] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X