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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート
ない、 ない・・・ ない・・・・ ない・・・
なーい!
長年愛用していた日本書紀の下巻がなーい! 昨日呑んだくれて、どっかに忘れた・・・ ううう、情けない・・・
あんまり情けないんで仕事も手につかん。 ちゅーことで、アマゾンでCD8枚買っちゃった♪ オールマンブラザース6枚と、 デレク・トラックス1枚、 それと懐かしーの1枚。
ピーターフランプトン♪
ブツが届くのが楽しみッス♪
して、7世紀なんだけど、 なんつっても日本書紀を失くしちゃったんで、 資料なしでわかる範囲で書きます・・・トホホ
まずは昨日の3つの課題から考えます。 前提は、 この時代の倭国の本国は九州にあった。 大和はその傍国だった。 この2点が前提です。 では行きましょう。 なぜ乙巳の変決行後、 首謀者の中大兄皇子は皇位につかなかったのか? この問題です。 乙巳の変が起こった645年6月までは 皇極(史上2人目の女性天皇)が天皇だったんですが、 変の直後、皇位を降りちゃいます。 んで、「あんた天皇やってくんない?」 と、セガレの中大兄に言うんですが、 中ちゃんは参謀の鎌足に 「どうしたモンですかね?」 と、相談するんです。 すると鎌足は、 「ここはすこし様子見たほうがいいかも♪」 てなワケで皇位を固辞するんです。 「オレには腹違いの兄貴もいるし、 おじさんもいるから、やんない!」 そう断った、と書記には書いてあるんです。 それからどうなったかって言うと、 腹違いの兄貴は 「滅相もない!天皇やるぐらいなら坊主になる!」 そう言って頭剃って吉野の山に隠遁しちゃうんです。 「え、オレ?しょーがねーなー♪」 と、中ちゃんの叔父貴であり、皇極の弟である 「軽皇子」(孝徳)が皇位に就くことになった。 これが書記に書かれたことであり、 定説となってることです。 皇位に就いた軽チャンも、 実は中ちゃんと鎌足とグルだった・・・ そう思わせるように、 書記ではクーデターを起こす直前の記事で、 「鎌足と軽チャンは仲良しなんですよぉ♪」 なーんてことを唐突に書いてるんです。 ・・・・・ なんか怪しい・・・ 仮にグルだったとしたら、 さらに矛盾が生じるんです。 それがクーデターの半年後に行われた 難波遷都だ! 本国の九州が半島紛争で悩殺されているとはいえ、 自然の要害である生駒山の奥にある飛鳥から、 大阪湾から攻められやすい難波に わざわざ遷都するなんて、 およそ考えられないじゃーないですか! ではなぜ、難波遷都が行われたか? ・・・・・ ズバリ言うわよ! 皇位を継いで孝徳天皇となった軽チャンは 九州本国に対してパンツを脱いだんです♪ 要するにこう言うことです。 1.中・鎌コンビは絶妙なタイミングでクーデターを起こした。 2.思惑通り、入鹿の暗殺に成功した。 3.本国九州も思ったとおり動けなかった。 4.しかし、大和内の皇族・豪族のうちでは 思いの他「親九州派」が多く、一気に 中・鎌が権力を手中に納めることができなかった。 5.そこで「親九州派」の軽(孝徳)が皇位を継いだ。 6.孝徳は九州の報復や関係悪化を嫌い、 「私はあくまで九州の子分ですよぉ♪」 というPRのため、無防備な難波に遷都した。 素盞嗚氏はこう読んでみました。 そうなると、3つ目の課題も解けてくるんです。 なぜ、あんなにも早く、しかも矢継ぎ早に 詔を発することができたのか? という疑問です。 これは難波遷都した645年12月の翌月、 正月から次から次へと、新しい法律は発せられたんですが、 これは遷都して、 「大和は九州に逆らいませんよぉ♪」 という第一の証で、 さらに 「ほーら、律令も新しいものなんか作らないで、 本国九州の律令をそのまんま使いますからぁ」 という宣言だったんじゃないかと思います。 要するに「改新の詔」は九州倭国の律令だった! この帰結です。 その後、8世紀に入って、 倭国が滅亡して、晴れて大和が「日本」を名乗り、 日本書紀を編纂するにあたって、 九州からパクッた詔をそのまま使うわけにもいかず、 行政単位が「評」だったものを「郡」に書き換えた・・・ こいつが真相なんじゃないか・・・
おぉ、資料なしでよく書けました♪ しかーし、中・鎌コンビの陰謀は こんなモンじゃへこたれなーい! 次に鎌足の打った手はいかに!
・・・・ そうだ! 今日は嫁素盞嗚は飲み会。 夕飯作らなくっちゃ♪ 焼肉かぁ! SEE YOU NEXT TIME お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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