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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Oct 19, 2006
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

昨日はいきなり中断しちゃって

ごみんさい・・・・

夜は夜で「黄桜」に呼ばれちったんス。

 

して、バツイチ子持ちのおばはんの話しです。

なかなかGOODな系図があったんで、

まず下の系図を見てくんさい。  

 

系図1

 

宝皇女は舒明と再婚する前に、

高向王と結婚してて、

漢皇子って子供も作ってるんです。

舒明に嫁いだのは36歳ぐらいなんですよ。

今の36歳っていえば、女盛りなんだろうけど、

当時36歳はもうかなりの高齢なんです。

彼女がベッピンさんだったかどうかは

わかんないけど、

天皇の正室に、36歳でバツイチ子持ちを

選ぶってどう思います?

素盞嗚氏にはとても考えられない。

じゃー、どういうことが考えられるか?

ズバリ答えはこれしかないですな♪

上位者から下位者に

女が払い下げられた!

これは日本の歴史上、よくある話なんです。

要するに、

高向王は舒明よりも

上位者だった!

この帰結です。

定説からでは考えられない帰結だけど、

九州倭国説から考えると、

理解できますよね。

高向王は九州倭国の要人だったと考えられますね。

では、具体的には誰だったのか?

これは容易に特定はできないけど、

蘇我入鹿だったんじゃないか・・・・

 

もう一度系図を見てもらうと、

宝皇女の母親、

吉備姫王ってーのは、

文字通り吉備系の女だったと思うんです。

吉備と大和の血を引く宝皇女が、

政略結婚として、九州系の入鹿(高向王)に嫁いだ。

恐らく側室として。

そして入鹿は、

大和内でより強固な地盤を固めるために

自分の側室を大和の大王の舒明に与えた・・・・

やがて舒明が亡くなると、

本来「軽皇子(孝徳)」辺りが

皇位を継ぎでもよさそうなのに、

入鹿は敢えて、自分のお手つきの宝皇女を

皇位に付けた。

先々はわが子、

漢皇子を皇位に就けようと思ったのかもしらないですね。

しかーし!

この入鹿の「謀略」に腹を立てた反九州派が

クーデターを起こした。

これが乙巳の変の真相だったと思います。

入鹿が惨殺されたその現場に

皇位に就いていた宝皇女(皇極)は立ち会っていたんですね。

目の前で前夫が殺されたのを目撃したわけです。

しかも殺したのは実の子、

中大兄皇子。

切なかったでしょうなぁ・・・・

この事件をきっかけに

宝皇女(皇極)は皇位を降りたんです。

そして前述のように、

中大兄皇子や鎌足の意に反して、

親九州派の孝徳が即位。

都を難波に移して、九州に忠誠の態度をとったんです。

反九州派は談山神社を総本山として、難波と対峙。

宝皇女はかつて愛した高向王(入鹿)の九州につくか、

わが子が神輿に乗っている大和改革派につくか、

苦悩の日々が続いたと考えられます。

失くしちゃった日本書紀にも、

宝皇女の苦悩を暗示する記事が

結構たくさん書かれてるんです。

 

嗚呼、悲劇の女、宝の決断はいかに!

 

さて、そろそろセミナーの準備をしなくちゃ。

ではでは、

SEE YOU NEXT TIME

 






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Last updated  Oct 19, 2006 10:17:21 AM
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