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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Nov 30, 2006
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

今日は自宅仕事。

来月の営業計画とその準備ッス。

そうそう、3,4日前のTVで、

阿部ちゃんと黒木瞳が出てた、

シベリアに抑留された実録ドラマ、見ました?

家で晩酌しながら嫁素盞嗚と見てたんだけど、

二人合わせて2リットルぐらい涙が出ましたぞ。

おかげてちょっと痩せた素盞嗚夫婦でした・・・・

 

さて、法隆寺。

法隆寺は日本書紀に書かれた通り

西暦669年に全焼した。

そして当然その本尊も焼失・・・・

では現存する本尊である「釈迦三尊像」はいったい・・・・

考えられることは2点ですな。

1)法隆寺を再建した時に新しく作った。

2)どっかにあった釈迦三尊像を持ってきた。

不思議なことにこういった議論、

今までほとんどされたことがないんです。

その理由はこの釈迦三尊像の裏に書かれた

光背銘の記述にあるんです。

ここにはいったい何が書かれているのか?

トップページに写真を載せたんで

チラッと見てくらはい。

・・・・・

わかります?

重要な部分を素盞嗚風「超訳」で解説しますね。

 

法興元31年12月、鬼前太后が死んじゃいました。

翌正月22日、鬼前太后の息子の

上宮法皇も具合が悪くなりました。

しかも上宮法皇の奥さんもブッ倒れちゃいました・・・・

そんなことがあったんで、

王子たちが発願してこの像を作ることにしました。

しかしその甲斐もなく、2月21日にかみさん死亡・・・

翌日の22日には上宮法皇まで死亡!

3月中にこの釈迦三尊像は完成しました。

作者は「使司馬 鞍首 止利仏師」

ってな感じのことが書いてあります。

で、問題はその解釈ですな。

登場人物は3人ですね。

まずは主人公、これが上宮法皇

その母親が鬼前太后

奥さんは「王后」と書かれてます。

(定説では「干食王后」。

 素盞嗚説では「干食」はその前文にかかる動詞)

従来の解釈では、

1)上宮法皇を聖徳太子に。

2)鬼前太皇は聖徳太子の母親である

  穴穂部間人皇女に。(用明天皇の皇后)

3)「王后」には莵道貝蛸(ウジカイダコ)皇女

この三人を当てているんです。

はたしてこの解釈でいいんでしょうか?

疑問は一杯あります。

まず1つは年号。

「法興元」という年号は天皇家の歴史には存在しないんです。

2つ目。

「法皇」という称号。

7世紀にはこんな称号は存在したという記録はないんです。

3つ目。

天皇問題。

この時代の天皇である推古天皇がまったく登場しないこと。

4つ目。

死亡日時。

聖徳太子と母親の穴穂部間人皇女の死亡日時は

日本書紀に記載されてますが、これが合ってない。

5つ目。

日本書紀との対応。

王家の3人がほんの数ヶ月の間に

立て続けに死亡するというドラマティックな事件が

日本書紀にまったく書かれていないこと。

要するに光背銘と従来の解釈である

聖徳太子の周辺とは全然合ってないんです。

それなのに定説では上宮法皇は聖徳太子だと言う・・・

いったいなぜ???

 

 

イカン・・・

銀行に行かねば!

今日は入金日♪

そんでもって支払日・・・・

帰りにラーメンでも喰ってこ♪

SEE YOU NEXT TIME






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Last updated  Nov 30, 2006 11:34:41 AM
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