511400 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

素盞嗚

素盞嗚

Category

Archives

Oct , 2024
Sep , 2024
Aug , 2024
Jul , 2024
Jun , 2024

Keyword Search

▼キーワード検索

Dec 26, 2006
XML
テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

先日行われた少年ソフトボール連盟の

5年生大会は残念ながらベスト4でした。

でも来年のシードが取れたんで、

タオル監督は上機嫌♪

しかも日曜日から始まった4年生大会も

ベスト4に進んじゃったんで大騒ぎッス。

来年の瀬ケ崎フレンズは強いぞ!

 

さて激動の7世紀後半、

唐の進駐軍と密約を結んだ大海人(天武)は

病に伏していた天智の元を離れて、

「吉野」に行ったという。

ここから日本書紀では、

日記のような細かさで

「壬申の乱」を描写してます。

その細かさゆえに

そこに描かれた内容を疑う研究者は

誰もいなかったんです。

これは古田武彦氏も言われていることだけど、

その細かさが逆に怪しい・・・・

そこで疑惑の目を持って

この「壬申の乱」を再考していきます。

まずは「吉野」。

実は大海人が吉野に入る前に、

同じようなシチュエーションで吉野入りした人物がいます。

それは20数年前。

次期天皇候補だった古人大兄皇子だ。

皇位争いに敗れた古人が

出家して吉野に入ってます。

そして吉野で殺されちゃいます。

当時中大兄が 

吉野に向けた軍勢はわずか40数名・・・

吉野という場所は

周囲を山に囲まれた盆地で、

周辺に通じる道は、わずか

3~4本の小道しかなかったんです。

言ってみれば、吉野とは

天然の檻みたいなところなんですね。

だから古人大兄が自ら吉野に入ったのは、

「もう観念した・・・・」

そういう意味なんです。

そして同じように大海人も自ら吉野に向かった・・・

しかも大海人の吉野入りを

人々はこうウワサしたって言うんです。

「虎に翼を付けてしまった」と。

吉野の地形を考えると、

「虎も袋のネズミとなってしまった」

そう表現してもいいようなもんじゃないでしょうか。

本当に大海人は、

奈良の吉野に入ったんだろうか???

 

1979年、三森堯司氏の書いた論文、

「馬から見た壬申の乱」

っちゅーのがあるんですが、

この論文から、壬申の乱の真偽を眺めて

みたいと思います。

 

さて来年は稼がねば・・・・

子素盞嗚1号が大学に行きたいんだと。

しかも私立理系・・・・

来年1年で200万円目標じゃー!

稼ぐぞぉ!

節約するぞぉ!

やっぱり安い酒しか呑まないぞぉ・・・・

SEE YOU NEXT TIME






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Dec 26, 2006 09:39:09 AM
コメント(14) | コメントを書く
[古代史レポート] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X