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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Mar 2, 2007
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

名古屋、行って来ました。

お昼はすがきやー♪

って決めてたのにお客様からお弁当の支給・・・・

でも夜はちゃんこ鍋を喰ってきました。

コショウの効いた汁、

珍しかったけど、旨かったッス♪

 

さて「ささみなの歌」。

いったい人麻呂はその目の奥に

何をみていたんだろうか。

直前の長歌を見てほしい(トップページ参照)。

その大意、日本古典文学体系にはこうある。

「神武天皇の代以来、お生まれになった天皇のすべてが

天下を治めていた大和の国をすてて、

何を思ってか、

田舎の近江の国の大津の宮で

天下を治めたという天智天皇の皇居は、

ココだと聞いたけど、

御殿はココだというけれど、

今は夏草が生い茂っている。

霞が立って春の日差しがにぶく霞んでいる・・・

この大宮の跡を見れば悲しさが募ってくる。」

こういう内容の長歌なんです。

もっとわかりやすく言うと、

1.神武天皇以来、代々天皇の都は大和にあった。

2.しかしなぜか38代天智天皇は

  都を大和から近江に移した。

3.その天智の死後、

  壬申の乱によって近江京は荒廃し、

  今は夏草が生い茂っている。

4.なんとも物悲しい風景ではないか・・・

壬申の乱は天武と

天智の子、大友皇子(弘文天皇)との戦いで、

ある意味では反乱軍の天武が勝ち、

弘文天皇は大山崎で首をつって自殺している。

この長歌はこの戦乱で廃れ去った

近江京と近江人への哀歌である。

これが江戸の契沖以来の解釈だ。

しかしちょっと待て!

何かおかしい。

神武から天智まで代々都は大和にあったか?

同じ7世紀の中ごろには

孝徳天皇が大和から難波に遷都しているじゃないか!

それだけだはない。

あの仁徳天皇の時代も都は難波だ。

人麻呂はその事実を知らなかったのか?

あり得ない。

では神武が大和で即位して以来、

最初に遷都をした天皇は誰だ。

第12代景行天皇だ。

書紀には

「近江の国に幸して、志賀に居すること3歳。

是を高穴穂宮という」

とある通り、

景行は「代々の大和から近江へ」遷都した天皇だ。

人麻呂の長歌を素直に読むなら、

ここで詠われた、

都を近江に移した天皇は

天智ではなく、景行だ。

ではその景行の近江京の行く末はいかに!

人麻呂が歌ったような

「帰って来なかった大宮人」の悲劇は

実際にあったのか・・・

この景行の近江京は景行のあと

成務、仲哀と続き、

次の応神から難波に都を移している。

この景行・成務・仲哀の3代の近江京時代に

悲劇はあったのか?

実はこの仲哀と応神の間に

王朝交代というとんでもない

クーデターがあった・・・・

次回その解説をしよう。

 

さて、今日も忙しいぞ!

といいながら、早くもハラが減ってきた・・・

今日のお昼は何にしようかにゃぁ♪






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Last updated  Mar 2, 2007 10:03:00 AM
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