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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Jun 8, 2007
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

久しぶりの古代史です。

壬申の乱に勝った天武は

天智・大友が都を置いた近江から、

再び飛鳥に都を移したと言います。

浄御原宮ですな。

この「都」、後に発掘されたんだけど、

肝心なものがなかったんです。

大極殿だ。

大極殿とは「天子」の住むところ。

大極殿がない「都」なんてーのはあり得ないんです。

それでいろいろ発掘してみたら、

東南の角にエビノコ郭っていう遺構が見つかって、

これが恐らく大極殿だろう、

そう言われてるんですね。

でもね、古今東西、大極殿ってーのは、

「都」の北側にあるもんなんです。

中国ではもちろん、

「日本」の平城京や平安京にある大極殿も

みーんな「都」の中央の北にあるんです。

でも、浄御原宮の北には大極殿がない・・・

これまでの研究者の前提は、

「壬申の乱の勝った天武は

この国の中心権力者になった」、

これを疑ってないので、

浄御原宮の大極殿は特別に

東南に作ったんだろう・・・

そう信じて疑ってないんですね。

先入観とは恐ろしいもんですなぁ・・・

なんの先入観も持たずに、

「都」に大極殿がない事実をみたなら、

「ああ、ココは中心権力者の都じゃないんだな」

そう考えなければならないんです。

要するに浄御原宮を作った天武は

敢えて大極殿を作らなかったんですな。

ということは、天武自身、

自分はこの国の中心権力者じゃないことを

きっちり認識してたと考えられるわけです。

わが国の「都」で明確に大極殿があったと

認められる最初の「都」は、

710年に遷都した「平城京」です。

それ以降の「都」には大極殿があるんです。

では、浄御原宮と平城京との間にあった

「藤原宮」はどうだったか?

これはね、持統天皇が

浄御原宮から遷都したんだけど、

実はここにも大極殿の伝承はないんです。

ただ「大宮土壇」という伝承はあって、

そこには「鴨公神社」ってーのがあるんですね。

それをもってこれまでの研究者は

この神社こそが大極殿であーる!

そう言ってるんですが、

これもアウトです!

そう、場所が違うんです。

大極殿は中央の北側になきゃならないのに、

この鴨公神社は中央にある・・・

やっぱり「藤原宮」にも中央権力者がいなかったんですな。

天武も持統も、己が「天子」でないことを

よーく認識してたってことです。

要するにこの時代(672年以降)も

まだ天子は別にいた!

これが2つの都から導かれる答えです。

そう、九州倭国の天子です。

ただね、どうにもよくわからないことがあったんです。

それはね、

なんで白村江の戦い(663年)で大敗したのに、

何十年も九州倭国は存在し得たのか???

これです。

んで、最近なんとなーくわかってきたんです。

次回からはもう一度、別の角度から

九州倭国の実態に迫ってみます。

 

えー、今日は久しぶりに

お吟とおさよに逢いました♪

なぜか越後屋はいなかったけど・・・

お吟に2回も「ザックリ」やられちゃったけど、

お吟ね、よく見るとベッピンさんですわ♪

毛並みもいいんで、

もしかしたら、どっかの外猫かもしらんですな。

んで、おさよ。

相変わらずおバカで

ヒョイヒョイ家の中に入ってきちゃいます。

今回は手ぇ出さなかったけどね♪

ちょっと目の病を罹ってるみたいでした。

どこかに赤ヒゲはおらんのかぁ!

 

明日は仲間のライブがあるんで行って来ます♪

えー、WHOTAのレコジャケのデザインが

大方できたみたいです。

もうすぐ完成!

ではでは、

SEE YOU NEXT TIME






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Last updated  Jun 8, 2007 08:47:20 PM
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