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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート
最初は気の強い女と思っていた。 遠くから見つめることしかできなかった・・・ その整った顔立ち、 そしてしなやかな肢体・・・・ 人妻なのはわかっているけど、 もうオレはお前に首ったけ・・・ ・・・・ お前が好きだ!
お吟! 一番警戒心が強かったのに、 最近はおさよと連れずに、 一人で近づくようになったね。 何度か「爪攻撃」で出血はしたけど、 もう手を出しても驚かなくなったね。
そして今日はついに 手の上でエサを喰ってくれたね♪
うおぉ! お吟、 早くお前を抱きたーい!
相変わらず仕事が手に付かない素盞嗚です・・・
さて、九州倭国の新たなる証明です。 以前にも紹介した九州年号、 「二中歴」によると、 九州年号の始まりは「継体」だ。 西暦で言うと517年から始まってます。 この時期は近畿天皇家では 「オオド」が「応神王朝」を攻めて、 新たなる体制を立ち上げた頃です。 「オオド」・・・ 後に淡海三船が 「継体天皇」と名前を付けた人物です。 なぜ九州年号の始まりの年号と 同じ「継体」を付けたのか・・・ これも実に興味深い問題だけど、 今回は触れません。 通常年号の始まりってーのは、 「建元」とか「正始」のように 「これから新たな始まりですよぉ♪」 って意味の漢字を充てるんだけど、 九州年号の始めは、 なぜか「継体」・・・ 体制を継ぐって意味なんです。 なんかヘンですよね。 九州倭国は新たに年号を作り、 新たに出発を期したはずなのに、 なぜ「継体」などどつけたのか? いったいどこの「体制」を継いだんだろうか・・・ それでいろいろ考えてみました。 九州倭国が継ぐべき体制ってどこだろう・・・・ 近畿であるはずはないし、 半島の国々っていうのもあり得ない・・・ そうなると、考えられるのは「中国」・・・ もしくは年号を作る前の倭国の体制・・・ このいずれかしかあり得ない。 旧倭国の体制であれば、 残念ながら調べようがないので、 まず「中国」、との作業仮説を立てて、 検証してみることにしました。 この頃の中国はどうなっていたか? 南北朝に分かれて、 お互い、「我こそが正統なり!」 と宣言してた時代です。 そして九州倭国は 南朝こそが正統であり、 その南朝に臣下の礼を取ってました。 これが定説であり、 素盞嗚氏も当然そうだと思っていました。 ちなみに南朝ってーのは、 あの倭の五王で有名な「宋」から始まり、 次が「南斉」、「梁」、最後は「陳」の4王朝です。 「宋書」の倭国伝を読むと、 倭国が南朝の宋に臣下の礼を取っていたことが よくわかります。 あまり有名じゃないけど、 「宋書」のあとに「南斉」「梁」「陳」も それぞれ国書の編纂をしていてるんで、 まずこの3書の倭国関連記事を 精査してみることにしました。 そしたらね、 驚くべき事実がわかってきました!
お! 久しぶりにキムポンが来た! 最近お前は影薄いのぉ・・・・
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