511417 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

素盞嗚

素盞嗚

Category

Archives

Oct , 2024
Sep , 2024
Aug , 2024
Jul , 2024
Jun , 2024

Keyword Search

▼キーワード検索

Jun 13, 2007
XML
テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

本日、終日会議。

珍しく終了後の呑み会には行かなかったッス。

お吟に逢いたかったもんで♪

ほれ、お吟おいで・・・

最近サッシを開ける音に反応して

すぐに寄ってくるお吟。

「ご飯の時間でちゅよぉ♪」

ん?

お吟、その目は!?

可愛そうに、お吟は右目を怪我してました。

だ、誰の仕業じゃ!

ん?何!

越後屋だぁ!

お、おのれ、越後屋!

ワシになついたお吟に手を上げるとは!

越後屋よ、いつかお主を

恐怖のどん底に叩き落してくれようぞ!

ちゅーことで、今度越後屋が来た時には

「家の中閉じ込め作戦」に出ようと思っとります!

 

えー、古代史いってみます。

南朝4代「宋」「南斉」「梁」「陳」の国書を読むと

「陳書」にはまったく倭国の記事がない訳です。

最後に倭国の記事が載っているのは

「梁書」の天監元年(502年)の記事。

そこには「征東将軍倭国王」として

倭国の位取りが書かれているんです。

「ん?待てよ。

 宋書では倭国王は『征東将軍』だったのでは?」

宋書を改めて見ると、やっぱり「大」がある・・・・

要するに中国における倭国の位取りは

「降格」しているんです。

しかもこの「梁書」の記事の前には

東アジアの各国王の位取りが書かれています。

その中に、百済は征東将軍とあるんです。

百済は倭国の上司ってとこになりますね。

「宋」の時代の倭国は

「六国諸軍事征東大将軍」を自認してたんです。

東アジアの6カ国を倭国が統治している大将軍ですよぉ、
 

という称号で、

その6カ国の中に百済が入ってるんです。

百済を統治しているとは、あくまでも自認であって、

中国が承認しているわけじゃないんですが、

倭国は「百済はオレの子分だ!」

という認識だったんですね。

それが「梁」の天監元年以降、

立場が逆転しちゃったわけです。

なぜ立場が逆転したのか詳細はわかりませんが、

「梁」の東アジアの運営方法の転換から

倭国軽視の立場になったのか、

または何かの問題から倭国が「梁」に噛みついたか・・・


恐らくこのどちらかだろうと思います。

恐らくこのどちらかだろうと思います。

いずれにしろ倭国にとっては驚天動地、

怒髪天を付く状態だったことは想像に難くないですね。


これが西暦502年の話で、

その15年後倭国は年号を建元したんです。


「継体」という年号で・・・


この15年間にいったい何があったんでしょうか。


「おもしれー、上等じゃねーか、

 もう中国に頭ぁ下げねーで、独立しようぜ!」


「いやいやちょっと待て。

 何百年も続いた中国との関係を切って

 いいことなんかあるんかい?

 ここは臥薪嘗胆、じっと堪えたほうが得策では・・・」


なーんて議論が倭国内で飛び交ったんじゃないでしょうか。


この時期の倭国王はあの「筑紫の君磐井」だったんです。

多分・・・


年号の建元とは、

中心権力者として「独立」を宣言した証のひとつですね。


恐らくこの15年間の中で

磐井は南朝「梁」からの独立を宣言して、

倭国初の年号「継体」を打ち出したんだと思います。


そしてこの「継体」、

「体制を継ぐ」という意味から考えると、

磐井はなんの体制を継いだのか?


ズバリ!

これは南朝の天子の体制を継いだんだと思うんです。


要するに磐井は南朝の本来の体制を継いで、

自らが天子であることを宣言したんだと思うんです。


「我こそが東アジアの天子」である!と。


もちろん実際は玉璽の問題があるので

勝手に自認しただけなんでしょうが・・・


それから約80年後、

中国は北朝の「隋」が南朝「陳」を倒し、

中国は久しぶりに全国統一されるんです。

北朝系統一王朝ですね。

そして天子を自認した磐井の後継、

「タリシヒコ」はその「隋」に国書を持っていきました。


ちなみにタリシヒコは聖徳太子じゃないですよ。


「日出づる処の天子、

 書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と。


「オレは南朝の正統を継いだ東海の天子であーる!」


と、「隋」に喧嘩売ってきたんですね。


一般的には天晴れな行動と褒め称えられている

タリシヒコの行動なんですが、


実はこれが約60年後に起こる

倭国大敗北、「白村江の戦い」の序曲となるんです・・・

おぉ、一気に書いたですぞ!

次回は白村江の戦い後の

倭国について考察してみます。

 

さて、これから越後屋の

閉じ込め作戦でも練りますか♪

待っておれよ、越後屋!

SEE YOU NEXT TIME






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Jun 13, 2007 09:04:32 PM
コメント(6) | コメントを書く
[古代史レポート] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X