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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Jun 19, 2007
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

お久しぶりです。

最近とーっても忙しい素盞嗚です。

昨日は新潟、今日は群馬に来ています。

明日の研修の準備も終わって

やっとイッパイっす♪

お吟、おさよぉ!

ハラすかしてねーだかぁ・・・

 

えー長らく中断していた古代史です。

 

すでに6世紀始めに南朝から離れて

自ら天子を名乗ったと思われる倭国王。

さらにタリシヒコの外交姿勢から、

中国を統一した北朝系隋に喧嘩を売って

隋とは国交断絶。

その後隋から禅譲を受けた「唐」とも

その関係は険悪な状態が続いたと思われます。

そしてついに663年、

百済をめぐり、唐とドンパチ。

白村江の戦いですね。

この戦、定説通り倭国の大敗北に終わりました。

そして時の倭国王「薩夜麻」は捕虜に・・・

敗戦後は唐の2000人もの軍隊が

倭国に上陸したんです。

戦勝国「唐」は倭国に対して

どんな思惑だったんでしょうか?

世界の戦争史を見てもわかる通り、

戦勝国は当然敗戦国を統治しようとしますね。

その方法は「直接統治」か「間接統治」か

どちらかとなるわけです。

今回の場合は当然「間接統治」を考えたと思います。

そのための2000人の軍隊派遣だったんですね。

唐はその軍事力を背景に

影で協力してきた天智・鎌足率いる近畿天皇家に

その傀儡を考えたはずです。

ところが実際は天智らにはそれほどの力もなく、

九州倭国勢力を駆逐することはできなかったようなんです。

そこで唐が考えたのは「天武」を傀儡にすることだった・・・

素盞嗚氏はそう考えてたんだけど、

どうにも釈然としないことがあったんです。

それが薩夜麻の帰国なんです。

敗戦の8年後の671年、

唐は「郭務そう」をリーダーとして

軍船47隻で再度来倭してきたんです。

しかもその時に倭国王「薩夜麻」を連れて・・・・

なぜ薩夜麻は帰国したのか?

またなぜ唐は薩夜麻を帰国させたのか?

当然唐はなんの意味もなく

薩夜麻を帰国させる訳がない。

必ず何かしらの政治的意図があったはずだ。

その意図とはいったいなんだったのか・・・・

これがやっとわかったんです♪

まー仕事が忙しい中、

寸暇を惜しんで考え抜いてました。

 

えー、明日は研修終わってから

大宴会予定なもんで、

明日は続きが書けないと思うけど、

木曜日には必ず書きますよぉ。

 

珍しく酒が進まない・・・

酒の量で健康度をチェックしてる素盞嗚君、

どうもどこかに異変がありそうッス。

多分、脳のような気がする・・・

 

最近脳みそ使い過ぎてるから・・・

 

イヤ待て・・・・

こないだ越後屋を虐めたタタリか・・・・

 

そーそー、

越後屋閉じ込め作戦、

敢行しましたぞぉ!

でももう二度とやらにゃい・・・・

・・・・・

 

 

こえかったよぉ・・・・

 

いつか報告しまぷ・・・

 

SEE YOU NEXT TIME






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Last updated  Jun 19, 2007 09:23:26 PM
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