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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート
思いの他メジャーじゃなかった「壹与」 倭人伝によれば、卑弥呼亡き後、 男王が立ったんだけど、 うまいこと国をまとめきれず、 結局、卑弥呼の宗女を国王にしたんです。 その国王が「壹与」 倭人伝の写本や版本には すべて「壹」(イチ)で書かれてます。 定説ではそれを「臺」(ダイ)の誤りだと言うんです。 根拠は? そう、倭人伝に書かれている 「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤りである! そう言われてるので、 「壹与」も「臺与」の誤りである! この二段論法なんですね。 でもよく考えてもらいたい。 この二段論法はまったくなりたたないですね。 しかもこの「臺」は「ト」とは読めないんです。 それでむりやり「臺」は「台」と同じである! そう言うんです。 「台」は「ト」と発音できますから・・・ ちなみに「台」は「臺」の略字のようにいわれているけど、 この2字はまったく別字です。 もともとは「邪馬壹国」を「ヤマト」と読ませるために、 「壹」→「臺」→「台」と読み替えていったんです。 これは論理の逆立ちであって、 決して学問的考察でもなんでもない。 結局「壹与」も上記の論理なき論理のための犠牲をなって 「壹与」→「臺与」→「台与」と読まれて、 本来「イヨ」と言われていたのに 「トヨ」などと言われるハメになっちゃったんです。
さて、次なる疑問。 「壹与」の「壹」とはなんぞや? これです。 これについては以前にも書いたけど、 「邪馬壹国」は本来 「ヤマタイコク」ではなくて、 「ヤマイコク」(またはヤマイチコク)と読むんです。 ここに出てくる「イ」という発音に 倭人伝(三国志)の著者「陳寿」が 「壹」の文字を当てたんだけど、 本来は「倭」の意味だったと思うんです。 「倭」は現在は「ワ」と発音するけど、 3世紀には「イ」と発音されてたんですね。 この「邪馬倭(ヤマイ)国」とは 小国名の「邪馬」と 本来の国名「倭」を合わせた読み方だったんです。 「狗邪韓国」と同じですね。 この考え方言うと、 問題の「壹与」。 これも「倭与」の可能性が高いんです。 宋書に出てくる「倭の五王」の筆頭「讃」も 「倭讃」と呼ばれてるんですね。 要するに倭国王「讃」を倭讃と呼んでるんです。 同じように考えると、 この「倭与」も 倭国王「与」だったかもしれない、 素盞嗚氏はそう仮説を立ててみたんです。 3世紀の「邪馬壹国」(倭国)は 魏に切ないほどに臣下の礼をとってたから、 倭人の間でも中国名を名乗っていたことは 充分考えられるんです。 その流れが「倭の五王」にも受け継がれていったんです。 「讃」「珍」「斉」「興」「武」ってヤツです。
さて、この考え方をヒントに、次回は 隋書に書かれた「タリシヒコ」のせがれ、 「リカミタフリ」の読みを考察してみよう。
「リカミタフリ」ってーのはあんまり知られてないと思いけど、 「タリシヒコ」は知ってますよね。 あの「日出づる処の天子」ッス。
さて、お仕事、もう一分張り! 7時になったら 越後屋一家と遊ぼ♪
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