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素盞嗚(スサノオ)の日本古代史

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Aug 6, 2007
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テーマ:日本の歴史(1070)
カテゴリ:古代史レポート

古代有名人の名前を調べて、

卑弥呼の後継者「壹与」のことを書きましたが、

「壹与」ちゃん、思いのほか有名じゃなくて

少々気落ちしてるんですが、

今回はあの有名は「タリシホコ」と

その息子「リカミタフリ」の名前について

書いていきます。

まずは「タリシヒコ」。

これは隋書に倭国王として出てくる名前ですね。

隋の天子「煬帝」に向かって、

「日出づる処の天子、書を

 日没する処の天子に致す、

 恙無きや 云々」

と宣言した倭国王です。

 

さてこの「タリシヒコ」、

隋書ではこう書かれています。

「姓は『阿毎』名は『多利思比孤』と。

いや、そう書かれていると思い込んでました。

今回改めて隋書の版本を読んでみて、

思わず目を疑ってしまった!

4文字目は「比」じゃなかったんです。

版本では明らかに「北」になっている・・・・

「多利思孤」、

「タリシホコ」なんです。

これについては他の版本や写本を

さらに比較してみる必要がありますが、

ちょっと調べてみた限りでは、

はっぱり「北」なんです。

驚くことに、岩波の解説を読んでみても、

この原文改定についてはまったくふれていないんです。

通常原文改定のルールは、

その改定に足るを証明しないで

むやみに改定することは許されない。

「北」と「比」は確かに似ているけど、

「比」をもって「ヒコ」と読ませたほうが

すっきりする、などのような

主観的判断で原文改定をすることは

いかがなものかと思うんです。

実際のところは「比」だったのかもしれないけど、

その証明ができない限りは「北」で読むことが

文献批判上のルールだと思うんです。

通常「比」で読んだ場合、

「足りし彦」と考えられているけど、

近畿天皇家で、この時期にこの名前の人物はいない。

そして「北」で読んだ場合は

「足りし矛」ではないかと素盞嗚氏は考えてみた。

九州は弥生時代から銅矛の出土がさかんな地域だ。

誇り高き「矛」の国王として

この名前で呼ばれていたとも考えられる。

そしてこの「タリシホコ」は隋に

「国書」を書いて持っていっている。

「国書」には当然発行した人物として

その国の王の署名があったはずだ。

いやなければおかしい。

国王の名前の入っていない国書など

あるはずがない。

とすると、この国書に書いてあった署名は

「多利思北孤」だったと考えることが一番自然だ。

この人物を近畿天皇家の誰かに当てはめようとしたり、

「タリシヒコ」は天皇の総称である、

などと考えている研究者は、この国書の署名について

どう考えているのだろう?

まったく説明ができないはずだ。

やはり隋に向かって「日出づる処の天子」を

名乗った倭国王は近畿天皇家ではあり得ない。

隋書の後半にある阿蘇山の描写からみても

この7世紀前半の権力の中心は

やはり九州にあったと考えてまず間違いない。

 

えー、少々脱線しましたが、

次回は「タリシホコ」のせがれ、

「リカミタフリ」について考えていきます。

 

おっといけねぇ、

仕事、仕事・・・・

SEE YOU NEXT TIME






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Last updated  Aug 6, 2007 03:26:49 PM
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