ニニギ対物部!
最近やっと「先」が見えてきた♪いくら頑張っても、先が見えない努力はツラい。でも、いくらツラくっても「先」に希望が見えれば頑張れる。今、そんな時期です。 気持ちは高まってきた!オレは負けないゼ。歯ぁ食いしばって、握り拳を作って、大海に出てやらぁ!足ぃ引っ張るヤツはぶっ飛ばすぞ! なーんてリキみながら仕事してます♪PCから眼を上げると、こんな景色が入ります。 六本木ヒルズに巣食う魑魅魍魎どもに、「オレは違う生き方をしてやる!」そう誓いながら仕事してます♪ さて、ニギハヤヒ(物部)です。ニニギの天孫降臨後、彼らは遠賀川流域に攻め込んだ。そこにいたのは、ニギハヤヒ一族。この地域はもともとニギハヤヒの独自の領土だったか?NO!ここは出雲の戦略的拠点だったと思うんです。天照大神が国譲りを断行した目的が、九州北部の肥沃な土地だったとするならば、その九州北部は当然出雲の勢力範囲だったはずですね。そうじゃなければわざわざ出雲に国譲りを迫るわけがないですから。しかもこの遠賀川流域は本州と九州を結ぶ、重要拠点だったと思うんです。であれば、出雲はここを他人に統治させるわけがない。そうです、身内を派遣したはずだ。要するに九州北部の遠賀川流域は、出雲の「親藩」だった。そしてその統治者がニギハヤヒだ。ニギハヤヒの統治した遠賀川流域は、出雲王朝の「親藩」だった。例していえば、江戸時代に伊達や上杉を牽制するために「親藩」として松平を会津に置いたようなものだ。出雲は九州を牽制するために「親藩」としてニギハヤヒを本州と九州の境に遣わしたけど、結局は本国たる出雲が国譲りしたため、ニギハヤヒもそのまま、天下りしたニニギに追いやられた。そんな推測をしてみました。まさに幕末の「維新軍」がニニギ。「江戸幕府」が出雲。「会津藩」がニギハヤヒ。そういう感じがします。結局、ニギハヤヒはニニギに追われ、軍門に降ることを潔しとせず、「西」に流れて「ヤマト」に落ち着いた。梅原猛氏たちが言うように、当時の「ヤマト」はもともと出雲の勢力範囲内だったと思います。九州を追われたニギハヤヒはニニギたちの手の届かないだろう「ヤマト」まで落ち延びた。これが、素盞嗚氏の必殺「こじつけ推測」です。でも、そう考えると、なんかモロモロがつながってくるんです。 整理すると、神武が「ヤマト」を攻めた時、すでにそこを統治していたニギハヤヒはもともと出雲一族のエリートだった。出雲王朝全盛時代に九州を牽制するために、遠賀川流域を領地としていたが、国譲りの影響から、天孫族のニニギに攻められた。そして出雲の息がかかっていて、しかも天孫族が攻めてこないような地である「ヤマト」に落ち着いた。そして時が経ち、再び宿敵だった天孫族の子孫たる神武が攻め込んできた。こんなことだったんじゃないでしょうか。・・・・・はっきり行って証明できるスベはありません。全くの推測ですが、どうもそんな気がします。銅鐸の分布状況から考えても、整合性がとれているような気がします。 はーはーはー、随分長くなりました。神武と物部との共存・・・・そしてその後・・・・・もうすこし掘り下げていきたいと思いますが、しばらく休憩・・・・・次回は「究極のヘン差値シリーズ」です。少々長いですが、とってもヘンな夫婦をご紹介します♪SEE YOU NEXT TIME