忘却ノ生キ物
「時が解決してくれるってこと、本当にあるの?」「最近何かあった?」と問う弥に、何があったとかいちいち覚えてない、と答えた。「忘れんといけんぐらい、嫌なことばっかりなん!?」と彼女は私の顔をしげしげと見詰めながら、心底心配そうな顔をした。そんな会話を弥としたのは、今年の始めに帰省した時の話だったか―『人は忘れないと生きてはいけない。忘れるからこそ、生きていけるのだ』そんなようなことを、昔、誰かが大真面目に言っていた記憶がある。きっと“水に流す”とは、そういうことなのだろう。過去のことは忘れましょ、ということなのだろう。でも、忘れてしまうが故に、同じ過ちを何度も繰り返してしまうのだろう、とも思う。戦争とか醜い争いごととか…過去に何度も述べているが、忘れるために、消化させるために私は書く。言い換えれば、BLOGは私の過去の記録(記憶)であり、ココロのゴミ箱なのだ。忘れるために敢えてsideBに掲載した『過去との決別』。でもね、文章として書こうが書くまいが、忘れられずに、結局ずーっと覚えてるんだよね。大事なことは直ぐに忘れてしまうのに、くだらないことだけは、本当に嫌になるほどよく覚えている。記事を一気に書き上げて、ふと、昔のことを思い出した。過去の恋愛のこと。昔からの読者さんは、ご存知だと思うが、私の彼は元カレ(以後、ケンジ)の親友だった。出会った当時の二人の関係は、“彼氏の親友”と“親友の彼女”だったわけだ。つまり私達の恋は、裏切りから始まったのだ。短期間ではあるが、彼と交際を始めた時期と、ケンジとの交際期間がかぶっている。勿論、彼もそのことを知っている。最終的に私がケンジではなく彼を選んだ。それだけだ。ケンジと私は、10年近くつき合っていた。つき合ったり別れたりを繰り返しながら、ね。別れている期間、それぞれ別の彼氏、彼女が居た。しかし、彼ら、彼女らと別れるといつの間にかまた元の鞘に納まる。一緒に居た10年間に、何回別れて何回復縁したのかなんて、もう覚えてなどいない。それは遠い昔の出来事だからかもしれないし、いちいちそれを覚えてられないほど、何度もケンジと復縁したせいなのかもしれない。二十歳の春…調度今頃だったかな?その時に一度、ケンジと完全に破局した。もう復縁することはないだろうと思っていたのに、その2年後に再会をし、再び復活を遂げたのだ。その時、言ったケンジの言葉が今も耳に残る。(その時の景色も雑踏も鮮明に思い出せる)『時が解決してくれるってこと、本当にあるんやね』嫌になって別れたのに、時が解決して互いを許し合い、再びつき合うことになれたという意味?周囲から直きに結婚と囁かれたケンジと私だったが、3年前に破局。それ以後、連絡は取っていない。あの時のケンジの言葉の意味が分からずに、今も居る。本当に時間が全てを解決してくれるの?もしそれが本当ならば、いつの日か私は、ケンジと笑いながら話をする日はくるのかな?それはただ単に、痛みを忘れただけではないのだろうか?そして、また繰り返すのだろうか?私は、繰り返したくなんかないよ。だって、私の中でもケンジの中でも、いくつになっても『当時』の姿のままだから。ケンジと何度も復縁して私が得たものは、それぐらいかな…私だけだと思うが、嫌になって別れたのに、その人を好きだった気持ちだけは消えない。何処が嫌だったのかは曖昧にしか覚えてないのに、好きだった気持ちだけは鮮明に残ってる。時々、その人を好きだった気持ちを思い出して、胸が疼くことがある。それはケンジだけに限らず、過去につき合った全ての人に対してね。人を好きになる感情はいくつになっても、どんな状況でも忘れていけない素敵な感情だと思う。でも、それとこれとは全く別の話だ。綺麗さっぱり忘れられれば、きっと楽になれるだろうに…つくづく馬鹿な生き物だ。