カテゴリ:森田理論の基本的な考え方
玉野井幹雄氏のお話です。
永い間私が、「症状のあるままやるべきことをやってきた」にもかかわらず、苦境から抜け出すことができなかった主な原因は、どうしても「不快感がなくなることを期待する心がなくならなかった」からであると思っています。 その心がなくならないと、すべての行動が「不快感をなくするための手段になってしまって」、常に結果を期待することになりますから、上手くいかないわけです。 そのために、「森田」がいつも言っている「あるがまま」とか「事実本位」とか「目的本位」という言葉も、一時的には効果があるような気がしましたが、本当のところを体得することができず、問題を根本的に解決するには、ほとんど役に立たなかったのであります。 ではどうすればよいかということですが、「この症状は絶対に治らない、このまま、できるだけのことをして、命のある限り生きるしかない」と覚悟を固めることです。 これは「自分の救いを断念する」「地獄に家を建てて住む」ことに他ならないのであります。 集談会に参加している人たちを見ていると、かなり「断念」の度合いがすすんでいて、日常生活には支障のない程度にはなっているけれども、まだ少し「断念」しきれないところが残っているために、すっきりした状態にはなっていない、まだひっかかっているところがある人が結構いるように思われます。 (いかにして神経症を克服するか 玉野井幹雄 自費出版 47~58ページ要旨引用) この話を私に当てはめて考えてみました。 私は過去の不祥事を思い出しては、後悔し罪悪感でいたたまれなくなることがあります。 それはこの不快な感情を何とか取り除いてしまいたいという気持ちが強いからだと思います。 そのために精神交互作用で自分を窮地に追い込んでいる。 今までは、起きてしまったことは取り消すことはできないのだから、不祥事を反省してこれから人の為に尽くせばいいはずだと考えていました。 そうすれば、過去の不祥事の数々は帳消しになるかもしれないなどと虫のよいことを考えていたのです。 玉野井幹雄氏の話を聞くと私は誤った考え方をしていたと思いました。 今までの不祥事はこれから先どんなに人の役に立つことをしても決して帳消しになることはない。 そんな虫のよいことを考えても、後悔、罪悪感、不快感がなくなるわけではない。 むしろますます悪化するばかりだ。 不祥事で後悔、罪悪感、不快感が湧き上がってくることは、そのまますべて受け入れるしかない。 後悔や罪悪感を受け入れながら、いま自分のできることに精一杯取り組んで生きていくしかない。 受け入れることは難しいことですが、この生き方はできるはずだと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.08.26 06:20:11
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