渇愛の意味がちょっとわかる気がするけれど
お釈迦さまのいわれる渇愛の意味。私たちが「愛」という言葉を使うと、すべて良い意味になる。でもこれは良くないことのようです。人間はみなわがままで自己主義。「人のため」と口では言いながら、本当は自分のため。偽善。単なるお仕着せやおせっかいが横行している。これが真理。自分が何かをしたいとき、それが人のためになることと思っても、それは自分がそう思っているだけ。そう思っている自分を満足させるため、つまり自分のためだと私も気がついている。自分の気持ちが落ち着くこと、幸せになることをしている。それがたまたま人のためになっていることがある。ただ、それだけなのだ。そう思えば、自分がしたことを他人から感謝してもらいたい、とか、お仕着せがましい気持ちから完全に解放される。自分がしていることをたまたま感謝されたら、そんなふうに感謝してもらえることを、心からありがたいと思える。自分で人のために何かをしている、と思っている間は、ものすごい偽善なんだ。だから、子どもに話をするとき、「あなたのためよ」などとは、言ってはならない。自分がしていることは、すべて自分のためにしている、と知ってるから。私はとてもジコチュウな人間なんです。子どもがお勉強したり、お手伝いしたりできるいい子になってほしいのは、他ならない自分なのだ。そんな自己中心的な思いに自分で気がついたのはもうずいぶん前だと思う。ついつい「~しなさい」と言ってしまうけれど、それは、「~してくれたら、私が嬉しい」を省略してしまっている。でも、省略しちゃいけない。私があなたにこうしてほしいのは、あなたがこうなったら私が幸せだし、きっとあなたも幸せになるんじゃないかと「私がそう思うから」と、言えれば、子どもも納得する。子どもの幸せを願ってなんて、それこそお仕着せだ。何が幸せなのか、自分は分かっているのか?と問わなければ。「~しなさい」というのではなく、「~したら、こうなると『私は』思うんだけど」と言うべきだ、という考え方は、今、世の中で、「コーチング」というコミュニケーションの技術として広まりつつあるけれど、はるか昔、すでにお釈迦さまはそのことを悟っておられたのだ。しかも、「人間はジコチュウ」という見事に論理的な根拠が示されている。お釈迦さまは、人間がみな利己的だということを知った上で、執着の心を捨てなさいと言われている。うちのお父さんは、「執着」あまりなかったなぁ(笑)。そういう意味では、人間としての完成度のレベルが高かったのかも。でも、確かに、人を愛したりすることは人間の醜い欲につながりやすいけれど、すべては自己中心的な自分のため、ということを分かっていれば、ほんとうの利他主義に近づける。たぶん仏教でもそういう教えをしているのだと思います。