8月。戦争。そうだ!フセインは端役だ!
たしかに戦争はいやなのだが、でも世界中が平和であるというのは、どういうことか?すべての国が、現状に満足し、国力が前進している状況?国民が、なんの不満もなく、生活している状況? でも、それは無理な夢物語だね。なにかの調整機能を働かさねばならぬ。一般社会だってそうだ。10人十色。それぞれが、理想というものの価値観をもち、それが社会ではぶつかる。それをセーブしているのが、社会というシステム。国家であり、政治。余談だが、自由民主なんてありえない。みんなが自由にやったら、民主主義もへったくれもなくなるからね。ちなみに、その役割を担わされて生まれたのが国連だったが、その無力さには目をおおうばかりだし、その国連を錦の御旗にするのが日本も、「?」だね。 国際社会では、有史、戦争という手段に訴えられてきた。資源の乏しい日本は、太平洋戦争では、侵攻先につぎつぎと日本の商社が駐在員を置いていったというし、イラク戦争は、なんとかアメリカが中東での石油利権を確固たる物にしようとしたのはあきらかだ。見てはないけど華氏911なんかふくめて、ある種の論調では、より高い利権を求める一部の層の行動基準がベースになってる戦争といえる。フセインがどうとかは、あとでつけた理屈にすぎぬ。逆に民主政府ができてこまるのは、アメリカそのものじゃないかね。 ある意味で、国民に向けての戦争をするためのアピールは、ためのこじつけだ。そして、とくに、国内で,意見の、価値観のぶつかりがあるときは、戦争でひとつの方向にまとめあげ、政権運営を容易にしようとする。テロへの戦い。なんともきれいな、反論を封じ込める言葉だろう。 現憲法は、あるいみ、その調整機能を武力に頼らないと宣言したわけだ。これは、並大抵のことじゃない。しかし、つい10年前までは、日本は、それをやってたんだね。また、全方位外交という言葉もあった。自衛隊は、右派勢力のはけ口として機能させていた。 でも、イラク派兵以降、なにかが、かわってきている。武力によらないで、利害調整をしようとする姿勢。唯一の軍事大国が、かようなら仕方ないのかもしれないが、やるせないね。なんだか冷戦のとき以上の危機感を覚えるね。