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カテゴリ:保護者問題(親問題)
親の孤独 → 子供への依存 → 過干渉やペット化 といった流れがあるように思っています。専業主婦は「●●ちゃんのお母さん」という認識のされ方をされて自分の名前を失ってしまいます。働く親は、職場の人間関係に埋没し、余裕のある人間関係を築けなくなってしまうというパターンもあるでしょう。 「個」を重視したライフスタイルを手に入れようと、しがらみを拒絶してきた現代の日本人は、血縁以外に「確かなつながり」を保障してくれるような共同幻想(?)がもちにくくなっていることは否めないと思います。 そんな社会を見てきた子供たち、そんな家庭で過干渉気味に育てられた子供もまた、つながりを実感できずに育ってしまいます。 10年ぐらい前からクラスの中で、「友達」や「仲間」といった言葉を使うときに、なんとなく違和感を持ってしまったり、躊躇してしまったりするムードが濃くなってきたように思います。 家族以外のつながりは、私的なつながりについては認めるが、公的なつながりを無条件で認めるつもりはない・・・そんなムードがクラスに、社会に蔓延しているような気がします。 クラスの子供同士でトラブルがあった時に、 「どうして友達にそんなひどい事をしたの?」 という言い回しができにくくなっている気がします。「クラスが同じ=友達」という図式が子供たちの頭の中に前提としてセットされておらず、「友達」という言葉が有効に作用しなくなってきています。最近の親や子供はクラスという偶然の集まりに「縁」等は感じることもなく、「共同体の起点」としてとらえることができません。共同体との折れ合いなど考えることもなく、あくまで私は私を崩さない。表面的・感情的な利害関係に基づいた視点からしか眺めることのできない親や子供が集まってしまっていると、学級経営など成り立たなくなってしまいます。 親の思考回路が家族や私的な関係にのみつながりを感じていれば、そんな親に育てられた子供たちは当然「家族や私的な関係にのみつながりを感じる」思考回路で社会と接するようになってしまいます。 こういった子供たちに「それでも人はつながっている」「折れ合うことも必要」「情けは人のためならず」という事を理解させ、実感させていくという作業は、たいへんなものになってしまいます。
「疑うこともなく知り合う人々を友達と呼べた日々へ・・・」(“ずっとそばに”in REINCANATION:松任谷由実) この曲が出されてすでに四半世紀が経ちます。当時既に「つながりは過去のもの」として懐かしむ心象風景があったということです。人と人の距離の混迷は長くつづいているし、ますます重症化しているように思えます。
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