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カテゴリ:保護者問題(親問題)
「絆」や「つながり」を再生するために、今、頭に浮かんでいる言葉は以下のようなものです。 マンパワーの確保、リーダーへの責任の分散、参加者の負担感の軽減 マネーパワーの確保、ブレイクスルーの発見 阻害要因の洗い出し 携帯やテレビゲームの自主規制 死生観の問いかけ 情報発信と共有(可能な要素のピックアップ) たてななめの関係の導入
今のところ、私の頭の中がいまいちつながっていないので(苦笑)、羅列したそれぞれの言葉についてもう少し考えながら、エントリーしていきたいと思っています。
さて、先日、DVDで映画「フラガール」を観てすごくタイムリーに心を打たれたので、ちょっと前回エントリーの内容に話をもどしちゃいます。 フラガール 夏目漱石「それから」の中に、"主人公"高等遊民"代助の「食うために働くなんてばからしい」といった内容のセリフがあります。「働くことはただの労働であるのか?」「働くばかりの人生に意味があるのか?」という疑問を明治の文豪は投げかけていたのだと思います。
しかし、「高等」ではない一般市民は、昭和の大戦が終わってからも、しばらくの間はかなり貧しくて、不自由な生活をしていた事が、当時の記録を見るとよくわかります。
「フラガール」の舞台は、昭和40年の岩手県の貧しい炭鉱の町です。戦後20年たったこの時期でさえ地方(庶民)は貧しく、職業の選択の幅は非常に小さかったのがわかります。まだまだ、食うために働かなくてはならない時代だったのです。街の人々は炭鉱で真っ黒になって働くことに誇りと生きがいを感じていても、所詮石油エネルギーに押されて閉山→解雇という流れの中ではリストラをされてしまう弱者でしかありません。
人間関係による「束縛」も強く、フラダンスを職業にするなどという自由は周囲から認められにくい「自由」でした。 当時の庶民は今よりもっと選択肢のない人生を生きていたのです。この映画は、単なる成長物語ではなく、閉鎖的・差別的で貧しかった昭和中期の時代背景をしっかりと描いており、素晴らしい作品だと思います。 物語はそうした昭和の弱者が街の生き残り策に賭けて「ハワイアンセンター」という娯楽施設の運営に関わっていく姿を描いています。そこには人々の情け(つながり・絆)があり、夢があり、「力」があります。 演技とはいえ、人々の表情の純朴さには心を打たれるものがあります。私たちが何を失ってきたのか、この映画は語りかけてくれます。 この映画は昭和40年の設定ですから、時代がこの後、余剰が過剰となり始めた昭和後期(40年~64年)へとつながっていくのかと思うとなんだか複雑な気がします。 今の世の中と「フラガール」の時代を比べてどちらが幸せなのかはよくわかりません。生活レベルは数段上がっており、岩手県の2006年の工業生産額23889億円は、1960年の724億円の33倍にもなっています。岩手県のような昔の日本の村社会が残っている地方でも、村からの束縛は当時に比べればゆるゆるになっていると聞きました。平成21年の私たちは人類の歴史の中でも極めて自由で、物質的に豊かな社会を手に入れていると言っても過言ではないでしょう。 その一方で、今の日本でも、相変わらずというかより巧妙に、弱者は叩かれかすめ取られているように思います。働くこと、生きることの意味さえも見失い、夢が何であったのかわからなくなり、むやみにつながりや絆を壊してしまったままです。 「あの頃には戻れない」のでしょう。あの頃のいいところだけを取り戻すことは難しいでしょう。 映画の中には蒼井優が仏壇に手を合わせる場面がさりげなく描かれていました。仏壇のある暮らしを取り戻すことひとつをとっても困難でしょう。 それでも、取り戻せることもきっとあると思います。 難しくても取り戻すことが可能な旧スタイルは何なのか、未来に向けて人をつなげる新しいスタイルとは何なのか??ただ昭和のレトロな風景を懐かしむだけではない、前向きな視点が必要なんだろうと思います。 ---------------------------------- フラついでに、小野リサさんのハワイアンアルバムもご紹介。 ジェイクシマブクロの「フラガールサントラ」もいいですが、これまた絶品です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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