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カテゴリ:保護者問題(親問題)
1.30歳までには過ぎれば結婚するもの。結婚したら離婚はしないように我慢する。 2.近所の人に会ったら挨拶をする。 3.クラスが同じなら友達や仲間と呼ぶ。
ところが、現代は必ずしもそうではありません。若い人ほどこういう感覚を持っていません。 1.→結婚するもしないも個人の自由。我慢して一緒にいる理由がどこにあるの?「生涯未婚となる人が4人に1人」「3組に1組が離婚する」等の情報もあります。 2.→私は近所の人と誰でも挨拶するようにしていますが、ご近所同士ではそうでもないようです。単に近くに住んでいるだけの人に、どうして挨拶なんて面倒な事をしなくてはならないの? 3.→喧嘩の仲裁をした時に、「どうして友達の困るような事をわざとするの」などと、迂闊に「友達」という言葉を使うと、子供に「友達じゃないもん」と返されます。単に私に反発して口答えをしているわけではなく、本当に「クラスが同じ=友達」という前提は皮膚感覚として薄いようです。そういう前提には違和感があるようです。
いろいろ人それぞれ、理屈はあるのだと思います。 でも、人それぞれと言っても、それなら、そんなにみんながみんな結婚や地域のつながりや友達や教育の事を真剣に深く考えた末で「人それぞれ」になったのかというと、そうでもないと思います。 大抵の人は、そんな程度ではないでしょうか。「人生をそんなに真剣に考えてきたか」と問われれば、「いやー、そうでもないっす」というのが一般的なレベルではないかと思います。昭和中期までは、地域社会が土着的に保っていた倫理感(生活習慣を含む)や宗教や社会(国家)が圧力的に持っていた規範といったものが、かろうじて個人の倫理感や人生観を支えてきていたのだと思います。 例えば、「夜、爪を切ってはいけない」「霊柩車を見たら親指を隠せ」などという伝承は若い世代には伝わっていません。中学生の息子に聞いてみると、「霊柩車って何?」と、聞き返されてしまいました。そう言えば、息子は葬式は1度しか出ていないし、その時も霊柩車を見送るところまでおらずに帰ってしまいました。 私は「霊柩車を見たら親指を隠せ」に関してはおそらく近所のお兄ちゃんかお姉ちゃんに教わったのだろうと思います。それ以来、霊柩車を見ると親の死を想起し、「ああ、親を大事にしなければ。」と、親子という最も強い(はずの)つながりを感じる機会となりました。夜も明るい今の時代でも、夜爪切ることには躊躇します。 今やそういった倫理観や人生観を育む装置がほとんど機能しなくなってしまって、倫理観や人生観を形作っていくのはほとんど個人任せ、自己責任になってしまいました。個人任せ、自己責任となっていることにさえ気がつかず、大抵の個人はなんとなくぼんやりと流されて生きているのではないでしょうか。 個人が独自で自分の中に倫理観や人生観を打ち立てるなんてことはとても難しいし、もし打ち立てられたとしても、現代社会ではその倫理感や人生観に沿った生き方を通すことも難しいです。そんなに難しくて面倒な事を個人任せにされてもどれだけの人が応えられるというのか...
・・・また、ネガティブな方向に行ってしまいました(苦笑)。では、どうやったら倫理観や人生観を打ち立てられ、つながることの必要性を感じることができるのかという話です。まずそこに至るに、考えるべきことが「死」についてです。死生観にじっくりと対峙してみることだと思います。「メメントモリ=死を想え」です。 長くなりそうなので、続きはまた次回に... --------------------------------- 下はNHKスペシャル「マネー資本主義」のオープニング。まずかったのは、資本の暴走だけではなかったのだろうと思います。ナレーションは「なぜ、誰も止められなかったのか。」と語ります。映像もシュールすぎて怖いぐらいです。 細野晴臣×Ann Sally×コシミハル。Ann Sallyはファーストアルバムに入っているのとは別バージョンで、細野さん、越さん、さすがです。 ↑ クリック !オープニング映像。 ↑ クリック !60秒バージョンもすごい。 「我々は、何をしてしまったのか?」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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