2つの博物館
去年は2つの大きな博物館へ行った。 運営管理は違うようだが さすが 国立!?展示の内容は教科書に出てくるようなものにあふれ、充実していた。 1つが上野公園にある東京国立博物館。訪れたのは、10月上旬、ほぼ10年ぶりになると思う。たまたまかもしれないが、以前に比べて外国からの観光客が多いのに驚いた。(個人的には日本の博物館もルーブル美術館みたいに大きくなってもほしいと願っている。) 博物館の館内のボランティアによる説明会があって参加した。展示物を詳しくわかりやすく説明してくれ、とてもよかった。 ”ハニワ”は たくさん発掘されているが、国宝になっているのは、これ(写真)だけなのだそうだ。6C頃のものといわれる。 ちなみにその頃、出羽の国では、蜂子皇子が出羽の国へやってきている。 もう1つは千葉県佐倉市にある歴史民俗博物館(歴博)。12月の最終日近くに訪れた。(右:パンフ)企画展示の”長岡京遷都・桓武と激動の時代”を見に行った。 桓武天皇といえば、平安京、現在の京都に都を置いた最初の天皇。しかし、私のイメージは、かってに”征夷”といって、東北地方に軍を派遣し、”38年戦争(774~811)”を行なった人。 展示では、その辺が詳しく解説されていて興味深い。 アテルイ(阿弖流為)と田村麻呂の話だけでないところもよかった。38年戦争が第1回から第8回までの年表になって整理されている表には、征討の内容が細かく記されていた。 大伴家持第2回の征東将軍にがなっていたことは今回、初めて知った。 また、記録による大和側の兵士の数は最高で10万人、死者が1061人、蝦夷側は、4千人、斬首は457(級)というのをみると、大和側の損失は大きく、蝦夷軍が決して負けていたわけではないことがよくわかった。まさに、エミシを一人百(もも)な人である・・・。 蝦夷側は焼失させられた村(800戸)などがあり、損失も大きかった。そして、大和側の国力も疲弊したため、38戦争は停止したことがよみとれた。戦争自体が、自然消滅していく感じだ。 では、なぜ桓武天皇が征討を行ったのだろうか?城柵が蝦夷に攻撃を受けて機能しなくなったからだとか、理由がいくつか考えられているようだ。が、それでは なぜ蝦夷がこの時期に急に攻撃を行なったのかなど、はっきりとした理由がわからない。まだ、解明されていないようだ。 この38年戦争では、大和側の兵士の多くが坂東の兵士であった。坂東(夷)VS 東北(蝦夷)という構図で その後、前九年・後三年の合戦、源氏と藤原氏との戦争に引継がれ、歴史がくりかえされていく不思議さも感じた。 鹿島神宮の悪路王の迫力ある顔や 日本刀の原型といわれる蕨手(わらびて)刀(蝦夷の刀)(右:写真)が目を引く。 どちらの博物館も1回だけではまわりきれない、企画展だけでもおもしろいのでできたら来年も行ってみたい。また、毎年、市町村立の小さな歴史博物館も、建物の大きさだけではない、その土地特有の歴史が知れてよいところがある。そういったところも訪ねてみたい。