義経の最期と奥州藤原氏の滅亡「鎌倉殿の13人/The 13 Lords of the Shogun」NHK大河ドラマ
2022年の大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では源平合戦の時代が今までとは違う視点で、これまであまり取り上げられなかったエピソードが交えられてドラマ化されている。ドラマとは言え、人の本質をついているものがありなかなか面白い。秀衡(田中泯)と義経(菅田将暉)の登場は8回目、奥州藤原氏滅亡は21回放送だった。 頼朝の平泉へ向かった奥州合戦は古代の蝦夷地侵攻と特に38年戦争から続いた源平合戦までの一連の蝦夷戦争の終わりを意味する。この頃の時代を象徴する記述がある。慈円の書いた「愚管抄」にある鳥羽院が亡くなった日、保元元(1156)年7月2日の有名な次の記述。「鳥羽院失(う)せさせ給ひて後、日本国の乱逆と伝ふことはおこりて後、武者(むさ)の世になりにけるなり。」 つまり、“昔から伝わる国の乱逆(天慶平将門の乱、源頼義が(安倍の)貞任を攻めた12年の戦いである前九年合戦など)などが起こったがそれらは都の外の出来事だった。鳥羽院が亡くなった後に、都も巻き込む武者(武士)の世になった”、という。 この言葉を象徴するように源平争乱が貴族政治家から武士政治へと変わる大転換期となった。蝦夷地での38年戦争後、関東、東北の乱世により武士が生まれ、いよいよ保元の乱で貴族を巻き込み奥州合戦でそれまでの大きな乱世が終息して、武士の時代が始まる、という大きな流れだ。それまでに多くの武士たちが公家(貴族)によって翻弄させられた。 合戦、戦争の時代とは言え、その刑罰などは残酷なものが少なくない。例えば鳥羽院がなくなった時に起こった保元の乱は源氏の源為義(頼朝義経の祖父)と源義朝(頼朝、義経の父)が親子で敵味方に分かれて戦ったが、その戦さで負けた為義は子の義朝の助命嘆願にも関わらず、子に斬首させられるという残忍な刑罰を受けた。公家貴族の強烈な”いびり”のような情け容赦ない仕打ちである。 一方、武士は武士たちで残忍だった。例を挙げると源義家(頼朝の先祖)が後三年合戦で敵である清原家衡の家来の平千任(たいらのちとう)や藤原経清(初代藤原清衡の父)に行ったことがある。ただ相手がを捕まえて首を刎ねるのではなく屈辱や苦しみをを与えながら殺すのだからそのやり方は後世の“武士の情け、武士道”などというものは微塵も感じられない。 今のような明文化された人を守る法律などのようなものはなく、騙す方より騙された方が悪いというような現代から考えると人の道、心理に反する、人の本性、感性から離れた理不尽と思うことを強いられることが多い時代だった。平安末期から鎌倉時代初めに鎌倉仏教の宗派が多く起こったのはこのような乱世の時代、乱れた人の心の時代だったことも無関係ではないように思える。 さて、大河ドラマだが源義経は少し空気を読めない人物として描かれている。悲劇のヒーローとしての義経像が一般的だが、最近では愚将としての見方もあるようだ。確かに常識破りで奇策のイメージもあるが。 菅田将暉の演じる義経は、少しイケイケ風に演じられていた。盛りだくさんにならざるをえない一の谷(鵯越えの逆落とし)、壇ノ浦などの合戦の場面は駆け足だったりはするが要所を抑えてストーリーの流れに不自然さがなかった。また、梶原景時(中村獅童)との確執なども描かれていてこれまでにないような面白さがある。義経の逃亡や平泉での内容も長くとられていて北の方(郷御前)と静御前とのやりとりなど美化して見ていた人物の普通のやりとりが新鮮だった。英雄視される義経も合戦以外は普通の人だったのだろうと思う。義経が平泉に逃げる場面ではもう少し掘り下げてもらえたら”清川“が出てきてもよいような場面もあった。 今回、藤原秀衡(奥州藤原氏三代目)は関東進出を目論む人物として描かれている。実際に秀衡は奥州を盤石にした後にどのようにしようと考えていたのだろうか。ドラマの始めの方から奥州の金の話も出てくるが経済的な影響は関東にも影響を与えていたことだろう。現在の東北地方を始めて統一したと考えられる奥州藤原氏だが平家と源氏が力を弱めあえば秀衡が勢力をさらに勢力を広げるチャンスはあったのかもしれない。秀衡にとって平家が源氏に簡単に負けるというのは誤算だったにちがいないし、源氏が奥州に攻め込んでくるというのはもっとも避けなければならなかったことだろう。平泉への引受けを拒んでいた義経を迎え入れたのには何か戦略的な策があったに違いない。一説には66歳でなくなったと考えられている秀衡だがもう少し長生きしていれば情勢も変わっていたのかもしれない。歴史的には、藤原氏、秀衡が望んでいた極楽浄土のような平和な時代とまでいかなくとも乱世が落ち着くにはもう少し時を待たなければならなかった。 今回の大河ドラマでは源氏と平家の源平合戦の単純な構図、強大な平家勢力に立ち向かう源氏勢力の構図を描いているだけではなく、源氏勢力の中の勢力争い、東北の平泉、藤原氏の内部の勢力争いまで描かれていて時代の流れがわかりやすく感じた。 秀衡が亡くなった後、子の泰衡は策なく頼朝に付け入られ言われるままに義経を殺して、自分が滅びることになる。源氏復活、平家打倒の足掛かりの大功労者である上総広常が謀反を疑われて失脚したことが象徴となるように、源平合戦で大活躍した鎌倉武士たちも平家を打倒、奥州藤原氏を滅亡させた後、様々な難癖をつけられ粛清させられるものが多く出た。妬みや嫉み、疑心暗鬼、農民(鎌倉時代、武士も農民だった。昔は利己主義的な主張をすると百姓根性だ、などと言ったり言われたりしていた思い出がある)の村社会的発想はこのころからある昔から変わらないもののようで日本文化の負の要素が出ているように思う。 ドラマでは三谷幸喜脚本の明るさで冗談のやり取りが場をなごませてくれるが、覚悟を以って多くの駆け引きを武力も使いよほどうまく立ち回らないと生き残るのがむずかしい時代だったようだ。 頼朝自身は落馬で命を落とすが、源氏の棟梁が落馬するなどありえないとして暗殺を疑う説もある。結果的に地方の一在地豪族にすぎなかった北条氏が執権として鎌倉幕府を掌握する立場となった。源氏の棟梁、将軍としての頼朝は北条家に利用されたような感じだ。 ←武士の成り立ちは東北蝦夷戦争にさかのぼり、その戦さの方法は蝦夷に学ぶところが多かった。(右は電子書籍) 日本の武士の歴史の始りは蝦夷への侵攻戦争に遡る。前述の慈円は愚管抄で平将門を反逆の例として挙げる。平将門は蝦夷を攻めた桓武天皇とつながり、歴史的には奥州藤原氏の滅亡が武士団の政治的統一となった。 今回は、畠山など多くの鎌倉武士がでてきてその人間模様も面白い。大きな歴史のくくりでは頼朝の率いる関東武者たちが全国を制して、平安貴族の時代を終わられ武士の時代が始まる、と考えられている。政治の中心は関東に移った。 関東の地名をもつ鎌倉武士は多い。同じ河内源氏であった足利氏が後に室町幕府を建てるなど鎌倉武士には室町、戦国時代へ続く有力な武士が数多くいた。毛利や頼朝の子孫とも言われる島津など壇ノ浦より西の九州へ領地を持つに到った鎌倉武士もいた。鎌倉武士団も知らないことも多く奥が深そうだ。