耕平の問題発言って言うか・・・
お風呂に入りながら耕平が言った。「おかあさん。成績って先生によって上下するよなぁ。」 この話題、お正月、国会よろしく、出演者が考えた法案を出演者間で討議の末、可決、否決を多数決で決める番組の一つの議案として提出された。それは、先生を評価して、評価の悪い先生は排除しようと言うモノだったが、僅差で否決された。耕平はそれを聴いていたのかどうなのかわからないが、心にふつふつと思うことがあるようだ。 大体、小学校の高学年、5、6年は、思春期の走り?でもあり、社会への反感、大人への不信感を募らせる時期でもある。私自身にも、小学5,6年生を受け持ってもらった先生を、やけに嫌っていた記憶がある。 ただ、だからどうだと言うのか?気に入らなければ排除しろと言うのか?学校は何のために行くのか?何を得るためか?学力?勿論それは学校に課せられた大きな課題だ。だから、その弊害となる人間関係は排除するべきなのか? だが、百人いれば百通りの人間性があり、個々の間に存在する人間関係が、自分以外の99人全てと良好な人はいるのだろうか?逆に99人全てとうまく行かない人がいるのだろうか? 仮にうまく行かない人が居たとして、その人は排除されなくてはならないのだろうか?むしろ、人間関係をうまく保てない人と関わらなくてはならない状況に置かれ、悩みながらそれを克服することでしか得ることの出来ないことを、そこで学ぶべきではないのだろうか。 子供を育てる意味は何か?子供は何を目指して成長するのか?成績、成績と言うが、皆東大めざし、末は学者か大臣か、と言う言葉もあるが、インテリを目指すのか? 先生によって成績がどうとか口走った我が子耕平だって然り。受験しようと思えば、かなりの難関校も通学射程距離にあるけれど、全く論外ではないか?もし、素晴らしい学力向上教師とめぐり合い、育ててもらっていれば、受験でもしたと言いたいのか?有り得ない!!!! 鍛え方によって人の脳は如何にでもなる、天才は作られると言う内容の本も出版され、それに感化された親が、シャカリキになってその指導者捜しに明け暮れると言うばかげた現象も有る様だが、そんなことに現を抜かしている間に、私なら、我が子と触れ合う時間を持ち、我が子を自分の手で育てたいと思う。自分の程度は高々痴れているが、我が子が本当に能力や才能のある子なら、絶対に自分を超えていくと思うし、実際、美術的な才能皆無の私から生まれた晃子は、親の欲目ではあるが、しっかりとした美術感覚を持っているし、それをうまく生かして身の回りの人を楽しませ、自分自身を豊かにしている。耕平だって、なかなかのエンターティナーで、家庭での何気ない一言が、周りの皆を驚かせたり、笑わせたりして、豊かな人間関係の源となっている。 漢字テストで一発で百点を取れる必要はない。取るなと言っているのではない。そりゃ、取れればこの上はないが、取れなくても再テストの結果、最終的に百個の漢字を覚えればよいのだ。最初に百点を取った子は、そこまでの努力を讃えるし、その能力をさらに伸ばせば良いと思う。 今ある環境を、不平不満を並べ立てて変えようとするのではなく、今ある環境の中で、何を学ぼうとするのか、何を学ぶべきなのか。そこをしっかりと見据えて、充実した毎日を送ればよいと思う。