夜桜。
桜が咲くのはきっと、入学式のお祝いのためだよ。薄桃の花の固まりが、言祝ぎの風景を彩る。今では和服のお母さんは見かけないけれど、誰もみな人受けのしそうな清楚なスーツを着込んで、幼い子どもの手を引いて校門をくぐっていく。だからこそ、桜なんだよ。一年に一度。一瞬に咲いて、一瞬で散る。入学式を待っているかのように。けれど、本当の桜の花はやっかいだ。綺麗なのは咲いている時だけで、散り始めると花びらが散乱し、掃いても掃いても片づかない。何時しか桃色の花びらがよれて、汚れた泥と混じり合い見る影もない。そして、その後がさらに難物だ。葉桜になって、緑が萌え出すとそこに今度は無数の毛虫がとりつくからだ。引っ越す前の家の裏には、大きな広い庭があって、そこに見事な枝振りの桜の大木がそびえ立っていた。ご多分にもれず花見毛氈を敷いての宴会もしていたようだが、宴の後は毛虫が降り注いでくる。春風が強く吹けば、隣家の物干しにも飛んでくる。窓から見える物干しの桟を、小さな虫が這い回っている風景は身の毛がよだつ。それだけではない。物干しどころか、春の陽気に窓を開けていたら、部屋の中にまでもぞもぞと入り込もうとする。気が抜けない。奴らは、様々な所を這い回り、天井付近までよじ登り、立て付けの悪い木造家屋の隙間からのそりとやってくる。庭に面した部屋へ入るときは、まず窓際を確認し、天井を見回して、奴らがいないことを確かめなければ、安心できない。常に窓に気を配り、不気味な物音や影を始終気にしながら過ごさなければならないのだ。毎年同じ春の風景。桜の花を見ても、美しいと思う気持ちも失せてしまった。後からやってくる毛虫退治にばかり、神経が敏感になってしまう。その家が取り壊され、跡地にワンルームマンションが建って、桜の大木に別れを告げても、むずがゆいような嫌悪感だけが残っていた。一度は美しいと思ったからこそ、毛嫌いし始めると止めどないのかもしれない。人の心とは、そんなものかもしれない。時は流れ、引っ越しをした。引っ越し先が小学校の近くだったこともあり、また桜の花が身近になった。逃れられない業のようなものなんだろうかと、笑いながら溜息をついた。葉桜になり始めると、毛虫をおそれて、自転車のペダルを踏む勢いも増す。逃げるように帰宅するばかりであった。今年もまた。桜の季節が始まり、そして終わろうとしていた。雨が多かった京都は、花見をするのには都合の悪い年回りだったかもしれない。「ただの毛虫成り木だ」などと、自嘲しながら各所の桜を遠目に仰いだ。入院患者にかかる手間や、洗濯物のビニール袋を自転車の前籠に放り込んで、何度も病院の傍の桜並木を疎ましく見上げていた。「はい。ええ。明日退院ですか」家人が電話口で、病院からの言づてをこちらに聞かせるように大きく復唱した。声が弾んでいる。大した病でもないし、病状は軽くてどうという事もなかったけれど、さすがに完全看護でも心は安まらなかったから。「明日退院だからね」わかっている、と声に出そうとして、やめた。何故か、うんと頷くだけだった。最後の夜だから、荷物も多いだろうと思ったけれど、昼間にすっくりと支度をしたらしく、もう持って帰るものもあまりない。顔色も良くなって、すぐにも帰りたげな表情が見てとれる。明日になれば、帰れるから。笑顔が、少しぎこちないけど。同じように、面と向かっては照れくさいけど、笑顔で返すともう一度笑ってくれる。良かったね。ぽつと、一言。これは声に出た。病院を後にして、ペダルを踏み込もうとした時。目の前に、大きな月が雲に隠れもせず照り栄えていた。向こうの家並みや商店街の明かりも見えているはずなのに。なぜだか月の青白い光が目に痛い。その時風が吹いた。無数の桜の花びらが、月を覆うように風に舞い踊っていた。今日は、見直してあげたよ。綺麗だね。